【正義】と【平和】

英雄千人をランキング。『千人の英雄伝』連載中。

全体表示

[ リスト ]

 堀秀治の父、秀政は、織田信長の側近であったが、本能寺の変の際には、軍監として、羽柴秀吉の備中攻めの陣中にいた。

 その後、秀吉に仕えて、紀州征伐、四国平定に従軍し、その功績によって、越前国北ノ庄、十八万石を与えられた。

 しかし、小田原征伐の最中、三十八歳の若さで、急死した。

 秀政は、1588年(天正十六年)、豊臣の姓を賜っている。

 堀直政は、奥田直純の息子で、秀政の従兄弟である。

 秀政と共に、織田信長、羽柴秀吉に従った。

 詳細な時期と経緯は不明であるが、堀姓に改姓し、直政の家臣になっている。

 主君の秀政が死去した時、その息子の秀治は、未だ、十五歳の若さであった。

 豊臣秀吉は、秀治が、若すぎるとの理由で、堀家の所領、北ノ庄を召し上げようとした。

 直政は、それに怒り、次男の直寄を秀吉の許に派遣し、秀政の功績を訴えた。

 その結果、前述の通り、上杉家の会津移封、堀家の越後国入封が、決定したのである。

 1598年(慶長三年)、豊臣秀吉が、死去すると、堀秀治は、徳川家康に接近する。

 秀治は、直政の四男、直重を人質として、江戸へ送った。

 1600年(慶長五年)4月には、上杉景勝の家臣である、直江兼続の密命によって、越後国では、上杉遺民一揆が発生する。

 秀治は、一揆の鎮圧に成功すると、関ヶ原の戦いの後、その功績によって、所領を安堵された。

 1606年(慶長十一年)、堀秀治が、死去すると、嫡男の忠俊が、家督と所領を相続した。

 しかし、家老の堀直政の死後の1610年(慶長十五年)、直政の長男の直清と、次男の直寄の争乱を発端とする、御家騒動が勃発する。越後福嶋鳴動である。

 徳川幕府は、豊臣恩顧の大名、堀家を潰す、口実とし、忠俊と直清を改易した。

 堀家の越後国入封の際、堀秀治の弟、親良が、四万石を与えられ、蔵王堂城主となる。

 現在の長岡は、その領内にあった。

 親良は、兄の秀治の家老、秀政と不和になって、対立。1602年(慶長七年)に、兄の秀治の次男で、養嗣子の鶴千代に家督を譲って、隠居した。

 しかし、鶴千代は、四年後に夭折して、蔵王堂城の蔵王藩は、嗣子がないまま、断絶した。

 蔵王藩は、堀直寄の坂戸藩へと編入され、堀直寄は、五万石の領主となった。

 堀忠俊の改易後に、徳川家康の六男、松平忠輝が、高田藩に入封すると、蔵王堂城は、その属領となった。

 しかし、松平忠輝は、1616年(元和二年)、大阪の陣の不始末によって、改易されると、堀直寄が、八万石に加増され、蔵王堂に入封した。

 堀直寄は、鶴千代の死後、蔵王堂藩を編入した頃から、新たな築城を考えていたらしい。

 蔵王堂城は、信濃川の近くで、年々、浸食が進み、大島庄平潟原への築城を考えていた。

 その地が、後に長岡と呼ばれるようになるが、名前の由来には、諸説がある。

 しかし、前述の通り、越後福嶋鳴動によって、堀忠俊が、改易された時に、堀直寄は、坂戸藩五万石から、信濃国飯山藩四万石に減封の上、移封されたため、長岡城の築城は、一時、頓挫する。

 直寄は、大阪の陣において、戦功を挙げ、徳川家康に賛美された。

 松平忠輝の改易後の1616年(元和二年)10月、堀直寄は、三万石を加増の上、再び、越後国に戻り、蔵王堂藩八万石の藩主となった。

 直寄は、念願の長岡城の築城を開始し、城下町を整備すると、蔵王堂城から、長岡城に移った。

 越後国長岡藩の立藩である。


[https://history.blogmura.com/his_bakumatsu/ranking.html にほんブログ村 幕末・明治維新]

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事