【正義】と【平和】

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 英雄には、少年期の英雄譚が付き物であるが、ナポレオンには、幼年学校時代の雪合戦の逸話がある。

 ブリエンヌ陸軍幼年学校では、聖職者である、教師達が、模擬戦闘としての雪合戦を推奨しており、学校の冬の風物詩の一つであった。

 ナポレオーネは、級友達を指導し、築城法で学んだ通りに、城砦・稜堡・角面堡を築き、更に級友を二組に分け、攻防戦を展開させた。

 そして、自身は、戦闘には加わることなく、平然と腕を組み、戦局の推移を見守る、ナポレオンの図版が、今に伝わっている。

 この雪合戦の逸話は、ナポレオンが、少年時代から、戦闘指揮官としての天賦の才能に恵まれていたことを示しているが、真偽は定かではなく、後世の付会との説が有力である。

 ナポレオーネは、幼年学校時代には、級友達から、孤立していたが、雪合戦の時にのみ、彼等を従わせることが、可能だったとすれば、確かに、恐るべき、天賦の才である。

 ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌは、幼年学校時代のナポレオーネの唯一の友人であった。

 ブーリエンヌは、幼年学校を卒業後には、軍人の道へは進まずに、ウィーンにおいて、法律と外交を学び、後にナポレオンの個人秘書になっている。

 ナポレオーネは、幼年学校において、5年間を過ごすと、1784年にパリの陸軍士官学校に入学した。

 士官学校には、騎兵科・歩兵科・砲兵科の三つの科があったが、彼は、当時、伝統のある、花形の騎兵科ではなく、砲兵科の道を選んだ。

 当時のフランスの陸軍士官学校は、毎年、9月に一週間近くに及ぶ、卒業試験を実施した。

 生徒達は、平均すると、3〜4年、学校に滞在し、試験に臨んだ。

 しかし、ナポレオーネは、入学の11カ月後に卒業試験に臨み、見事、合格する。

 成績は、136人中42位であったが、わずか、11カ月での卒業は、陸軍士官学校開校以来の最短記録であった。

 卒業試験の成績が、上位の58人は、即座に、少尉任官を認められる。

 ナポレオーネは、16歳と1カ月に満たないまま、フランス陸軍の砲兵少尉に任官したのである。

 配属先は、ヴァランスのラ=フュール砲兵連隊であった。

 1785年11月、ナポレオーネは、同じ連隊に配属された、友人である、デ=マジと共に、ヴァランスに到着した。

 この頃には、ナポレオーネは、次第に協調性を持つようになり、わずかであるが、友人もいた。フランス語に慣れたことも、要因の一つかもしれない。

 当時のフランスの陸軍では、配属後、三カ月程度の連隊付勤務後に、正式な少尉任官が決まった。

 しかし、連隊長のランヌ大佐は、わずか、二カ月で、ナポレオーネを、少尉に任官させている。

 ナポレオーネに非凡な才を見たのであろうか。

 なお、ヴァランス赴任前の1785年2月、コルシカ島では、ナポレオーネの父、カルロが、38歳の若さで亡くなっている。

 カルロ・マリア・ディ・ブオナパルテは、ナポレオンが、後年、フランス語風に姓名を改正したため、シャルル・マリ・ド・ボナパルトと呼ばれる。

 ナポレオーネは、父に対して、複雑な感情を抱いていた。

 熱烈なコルシカ独立主義者のナポレオーネは、パオリを崇拝し、フランスに転向した、カルロを軽蔑していた。

 しかし、父が、転向したからこそ、少尉任官が可能だったことも、また、事実であった。


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