【正義】と【平和】

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 ナポレオーネは、1986年に『コルシカ論』を執筆して、「コルシカ人は、正義のあらゆる法則に従って、ジェノヴァの軛を振りはらうことができたし、同様に、フランス人の軛を払い除けてもかまわないのである」と記していた。

 ナポレオーネは、故郷のコルシカのアジャクシオにおいて、演説を行って、革命を唱え、フランス本国の国民議会の援軍を待った。

 しかし、国王の正規軍が現れると、革命派は、捕らえられ、武装解除されたが、投獄はされなかった。

 1789年12月4日、フランス革命の初期の指導者の一人である、オノーレ・ミラボーは、「自由のために戦ったコルシカ人は法律上なんの罪もおかしていない」として、パオリを中心とする、コルシカ人亡命者に対する恩赦を主張し、国民議会で認可された。

 ミラボーは、若き日に、フランス軍として、コルシカ独立戦争の鎮圧に参加していたが、その経歴を恥じていたと言われる。

 しかし、国民議会は、コルシカのフランスからの独立を認めたわけではない。

 フランスの一部、「コルシカ県」とし、バスティアを首都に定め、フランス人と同様に、革命の理念の恩恵を受けることを認めたのである。

 前述した通り、四十年戦争の後、パスクワーレ・パオリは、イギリスに亡命していた。

 植民地獲得競争において、イギリスは、フランスと対立していたため、フランスと戦った、パオリは、イギリスでは、英雄として扱われ、国王のジョージ3世に拝謁し、年金として、2,000ポンドを受け取るなど、厚遇され、快適な生活を送っていた。

 1790年4月、パオリは、イギリスから、フランスの首都パリを訪れた。

 そして、革命の指導者の一人である、ロベスピエールと会見し、「あなたは、我々が、自由を望むことなど、思いもつかなかった時、それを守られた」と讃えられている。

 そして、同年7月14日、フランス革命一周年の比に、パオリは、故郷のコルシカ島へ、21年ぶりの帰還を果たした。

 パオリの元本拠地である、コルチの市民達は、帰還を喜び、パオリに「エル・バッブ・デッラ・パートリア」(祖国の父)という称号を贈った。

 ナポレオーネは、パオリの帰還の直前、1790年6月に、休暇期間終了のため、13歳の弟、ルイを伴い、ヴァランスに中尉として、着任した。

 ブオナパルテ家は、貧困に喘いでおり、ナポレオーネは、わずかな給与で、自身とルイの二人の生活費を賄わねばならなかった。

 リヨンのアカデミーが、「人類の幸福を徳育するにあたり、最も重要な真理と感情は何か」をテーマとする、論文を募っていることを知ると、ナポレオーネは、賞金1,200フランを得るため、応募したが、落選している。

 しかし、その後も、ナポレオーネは、コルシカに関する小説など、執筆活動を続けると共に、相変わらず、読書に明け暮れた。

 ナポレオーネが、ヴァランスに赴任した、1790年6月20日、フランス国王ルイ16世は、家族と共にパリを脱出し、オーストリアへの逃亡を図る。ヴァレンヌ事件である。

 国王の一家は、国境の手前のヴァレンヌで民衆に見つかり、パリに連れ戻された。

 国王一家の逃亡事件は、フランス国民に大きな衝撃を与えた。

 それまでは、比較的多数の国民が、国王擁護派であったが、事件により、国王は、国民の支持を失ったのである。


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