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 四代藩主、牧野忠寿の治世中、三蔵火事によって、長岡城が、全焼したのを初めとし、被害は、延焼戸数千五百戸超に及んだ。

 長岡城の再建には、二十六年の歳月を費やした。

 忠寿の死後、次男の忠周が、長岡藩五代藩主の座に就いた。

 牧野忠周は、生来、病弱のため、十八歳の年には、妹の直姫を養女にすると、日向国の延岡藩主の牧野貞通の息子、忠敬を、直姫の婿養子に迎えた。

 牧野貞通は、初代長岡藩主、牧野忠成の三弟、儀成の次男、牧野成貞の長男であった。

 長岡藩主の血脈は、忠寿・忠周の二代を経た後、本多氏から、再び、牛久保城主牧野氏に、戻ったのである。

 なお、忠敬を婿養子に迎えた後に、忠周には、二男三女の実子が生まれたと言われるが、詳細は不明である。

 更に皮肉なことに、病弱な、忠周は、五十二歳で、死去しているが、忠敬、忠利、忠寛の三代の後継者より、長命であった。

 1746年(延享三年)、牧野忠周の隠居に伴い、忠敬が、十八歳で、六代藩主の座に就く。

 しかし、そのわずか、二年後、忠敬は、死去してしまう。

 当時、京都所司代の座にあった、忠敬の実父、牧野貞通は、急遽、江戸に下向して、長岡藩の江戸藩邸に入った。

 貞通は、自身の八男で、忠敬の弟の忠利を、忠敬の末期養子として、七代長岡藩主の座に就けた。

 無論、七代藩主、忠周は存命であったため、忠周の了承を得ていると思われる。

 この時、忠利は、忠周の父、忠寿の実家である、近江国膳所藩主、本多康桓の娘の茂姫と婚約しているが、茂姫は、実は、忠周の娘であった。

 しかし、その忠利も、五年後の1755年(宝暦五年)に、二十二歳で、死去してしまう。

 そのため、公式上は、牧野貞通の十男で、忠利の異母弟の忠寛が、養子として、八代長岡藩主の座に就いた。

 しかし、実は、忠寛は、忠周の実子であった。

 当時、七代藩主の忠周は、未だ、存命であったため、忠周が、二十六歳で、早々に隠居をしなければ、忠敬・忠利を養子に迎える、必要はなく、忠周から、忠寛に順調に、藩主の座を継承できたであろう。

 長岡藩主の血脈は、再び、本多氏に戻ったのである。

 牧野忠寛が、二十六歳の若さで、死去すると、忠寛の長男、忠精が、九代藩主となった。

 長岡藩主は、三代続いて、二十代で死去している。

 忠精に至り、ようやく、長命の藩主が、登場する。

 忠精の長男、忠鎮が、寛政の改革で有名な、陸奥国白河藩主で、幕府の老中、松平定信の娘を妻に迎えたため、忠精は、幕府の要職を歴任する。

 牧野忠精は、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代と順調に出世し、遂に、幕府の老中に上り詰めた。

 忠精は、松平定信の失脚後に、定信に登用されて、幕政を主導した、寛政の遺老の一人に数えられている。

 忠精は、1831年(天保二年)、七十二歳で死去した。

 牧野忠精の長男、忠鎮は、父に先立ち、早世していた。

 次男の総親は、養子に出されて、三男の銀三郎は、早世していた。

 そのため、四男の忠雅が、十代長岡藩主の座に就いた。

 なお、忠精の正室の息子は、忠鎮と忠雅のみであったため、順当な継承と言える。

 忠雅は、父と同様、奏者番、寺社奉行、京都所司代を経て、老中に就任すると、海防掛担当になる。

 幕閣としての席次は、老中筆頭の阿部正弘に次ぎ、終始、阿部と歩調を合わせた。


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