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 ナポレオーネは、コルシカ島のフランスからの完全独立を目指し、1792年の復活祭の日、フランスのコルシカ支配の象徴である、要塞を攻撃した。

 戦闘は、偶発的に発生したが、ナポレオーネが、義勇軍の戦闘に立ち、要塞奪取を試みたのは確かである。

 しかし、フランス軍は、義勇軍を撃退して、ナポレオーネは、撤退を余儀なくされた。

 報告を受けた、パリの当局は、ナポレオーネを叛乱罪で告発し、彼は、国家反逆罪訴訟の脅威に晒された。

 パオリは、ナポレオーネを守らず、義勇軍副司令官の職を解任する。

 元々、パオリは、自分を見限り、フランスの支配者側に体制した、自身の元副官である、カルロ・マリア・ブオナパルテを裏切り者と考えていたため、ブオナパルテ家を、快くは、思っていなかった。

 ナポレオーネは、父を軽蔑して、パオリを熱狂的に支持していたが、自分を切り捨てたことを契機に、パオリと対立することになる。

 その後、ナポレオーネは、コルシカの独立の夢を捨てて、フランス革命の精神である、自由・平等・博愛の精神の許に、コルシカの地位を向上させるべきと考えるようになる。

 一方、パオリは、フランス軍第43師団長、陸軍中将の肩書を有していたが、コルシカ島の地主勢力のポッツォ・ディ・ボルゴ等の支持を受けていたため、イギリスの援助の下に、フランスからのコルシカ島の完全独立を目指し、両者の溝は深まった。

 ナポレオーネは、義勇軍の副司令官を解任された後、パリに向かった。

 しかし、中尉の肩書は残っていたが、フランス軍に役職はなく、生活は困窮を極めた。

 1792年8月10日、ナポレオーネは、パリにおいて、市民達が、テュイルリー宮殿を襲撃するのを目撃する。

 この時、ナポレオーネは、幼年学校時代の級友、ブーリエンヌと再会を果たしており、彼と共に襲撃を眺めながら、「500人か、600人、市民を大砲で追っ払えば、残りの者も、その後を追ったであろうに」と発言したと言われる。

 1792年9月、「1791年憲法」に基づく、立法議会が、廃止された。

 そして、財産及び、納税額に関わりなく、全ての男子に選挙権が与えられる、普通選挙が、制度化されると、選挙によって、新しい議会である、「国民公会」の議員が選ばれた。

 9月21日、国民公会は、王政廃止と共和政の樹立を宣言した。

 フランス第一共和政の成立である。

 フランス軍において、役職のない、ナポレオーネは、パリでの生活に見切りをつけると、再び、コルシカへ帰郷した。

 国民公会のコルシカ代表のサリセティは、パオリの宿敵で、故に、パオリと対立している、ブオナパルテ家の味方ということになる。

 国民公会では、過激な革命思想を有する、山岳派=ジャコバン派が、勢力を増大させた。

 共和政府は、国王のルイ16世を革命裁判にかける。

 国王が、対外戦争の際に、フランスの政府と国民を裏切っていた証拠が、数多く提出された。

 1793年1月14日、国民公会は、賛成387対反対334で、ルイ16世の死刑を議決した。

 1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世は、パリの革命広場で、ギロチンによって、処刑された。

 10月には、マリー・アントワネットが、後ろ手に縛られて、肥料運搬車で、市中を引き回された末に処刑されたのである。


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