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 河井継之助は、1827年(文政十年)1月27日、長岡城下において、河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。

 母の名は、貞。

 継之助は、幼名で、元服後の名は、河井秋義であるが、秋義は、元服後も、幼名の「継之助」を通称として、用いていた。

 継之助の生まれた、文政十年の長岡藩主は、「寛政の遺老」、第九代の牧野忠清であった。

 継之助が、五歳の年に、藩主は、第十代の忠雅に代わり、三十二歳の年には、第十一代の忠恭に代わっている。

 後年、継之助を家老に抜擢したのは、忠恭である。

 河井家の出自は、二説がある。

 一説は、越後国蒲原郡河井村出身の地侍。

 もう一説は、近江国膳所藩本多氏の家臣であったとの説である。

 本多氏家臣説では、膳所藩主の娘が、初代長岡藩主、牧野忠成の嫡子である、光成へ嫁ぐ際、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が、長岡へ帯同した。

 兄に四十石、弟に二十五石が与えられ、牧野家の新参家臣となった。

 忠右衛門は、祐筆役となり、その後、郡奉行となった。

 この間、二度、加増を受けて、百石となり、河井金太夫家と呼ばれた。

 本項の主人公、河井継之助の河井家は、忠右衛門の次男である、代右衛門信堅が、新知三十俵二人扶持を与えられ、1707年(宝永四年)に、中小姓として、召し出されて、別家となった、家系である。

 河井信堅は、勘定頭、新潟町奉行を歴任し、物頭格になり、禄高は、百二十石となった。

 信堅の子孫は、代々、代右衛門を称した。

 信堅の息子の代右衛門秋恒は、父と同じ役職を歴任した。

 秋恒の息子、代右衛門秋紀が、継之助の父である。

 河井継之助の祖父、河井秋恒は、文化年間に十年、新潟奉行を務めている。

 新潟奉行は、長岡藩が、郡奉行配下として、新潟町代官を設置し、新潟町に派遣して、管理していた。

 1676年(延宝四年)以降、専任の新潟町奉行を新設して、町政全体を管理した。

 奉行は、検断、町老、町肝煎、町代を配下とし、新潟町政を管理したのである。

 新潟は、牧野氏入封以来の長岡藩の領地で、1713年(正徳三年)、越前国敦賀の出身者の中村源七の進言を受けて、仲金制を敷いた。

 以降、新潟は、長岡藩の重要な財源となった。

 新潟町が、港湾都市として、発展したのは、最初の二人の藩主、堀直寄及び、牧野忠成が、新潟の商人を保護して、河川交通・海上交通を発展させたことが、契機であった。

 幕府は、天保年間の頃には、権力回復のため、上知令などの統制強化策を推進しており、1843年(天保十四年)に、新潟町の上知が命じられた。

 長岡藩は、外港の新潟を、幕府に返上し、新潟港の代替地として、天領の三島郡高梨村、六百石を与えられた。

 幕府が、新潟町の上知、即ち、幕府への返上をさせたのは、薩摩藩が、新潟港において、「抜荷」=私貿易を行って、莫大な利益を得ていたことが、発覚したためである。

 しかし、長岡藩の新潟奉行は、薩摩藩の抜荷を、二度、見逃していたのである。

 貿易及び、貿易の利益を独占したい、幕府にとっては、薩摩藩の抜荷は、看過できない。

 そのため、幕府は、流通統制を強化すべく、新潟港の直轄化を行ったのである。

 長岡藩が、新潟港から得ていた、租税は、一万五千石相当であったために、新潟の上知は、長岡藩の財政にとっては、大打撃となったのである。


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