【正義】と【平和】

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 1992年4月に、フランスの革命政府が、オーストリアに宣戦布告をした際、革命政府は、コルシカのフランス軍第43師団長、陸軍中将のパオリに対して、サルディニア島の攻略を命じた。

 しかし、サルディニア島の島民は、コルシカ人に近い、言語や習俗を持っており、フランスの官憲に逐われた、コルシカのバンディ達を匿ってくれたため、パオリとしては、サルディニア島の攻撃は、全く、熱意を示さなかった。
 
 パオリは、甥のコローナ・チェッサリ大佐を、サルディニア攻略の指揮官に任命すると、失敗するよう言い含めた。

 1993年2月、チェッサリ大佐の部隊は、サルディニア島の北に位置する、小島のサンステファノ島に上陸する。

 ナポレオーネは、この頃、フランス軍のコルシカ駐留部隊に所属していたため、チェッサリ大佐の指揮下に加わっていた。

 サンステファノ島のコルシカ駐留フランス軍は、マッダレーナ島のサルディニア軍へと砲撃を開始した。

 この砲撃は、ナポレーネの采配で行われた。

 しかし、チェッサリ大佐は、当初の目論み通り、適当なところで、戦闘を中止し、撤収を命じた。
 
 ナポレオーネは、激怒して、コルシカに戻ると、パオリの叛逆行為を、フランスの本国政府へと訴えた。

 パオリ派と反パオリ派の対立は、決定的となって、ブオナパルテ家は、サリセティの支援を得ると、反パオリ派の組織編制に成功する。
 
 フランス本国のトゥーロンのジャコバン・クラブに所属していた、ナポレーネの6歳下の弟である、リュシアンは、パオリを弾劾する演説を行った。

 国民公会は、弾劾を受けて、コルシカ島駐留軍所属将校の任命と降格を断行する。

 ナポレオーネは、コルシカ義勇軍の少佐に復帰した。

 国民公会は、更に、パオリの逮捕を命令した。
 
 リュシアンは、国民公会の決定に満足し、コルシカの家族に宛てて、その旨を記した、手紙を送ったが、その手紙が、パオリ派の手に落ちてしまう。

 パオリは、フランスに対し、本格的に反旗を翻す決意を固めると、コルテで開催した評議会において、ブオナパルテ家を法の保護の外に置くと決議した。

 パオリ派の群集が、ブオナパルテ家に押し寄せると、略奪を行い、ブオナパルテの一家は、コルシカ島の革命委員会に逃げ込んだ。
 
 パオリ派は、コルシカ島のフランス駐留軍の要塞を占拠し、ナポレオーネは、今度は、叛乱軍ではなく、フランス軍の指揮官として、要塞に砲撃を行った。

 しかし、パオリ派は、コルシカ住民の圧倒的多数を占め、ナポレーネは、再び、撤退を余儀なくされた。
 
 コルシカ人民評議会は、ブオナパルテ家の亡命を宣言し、一族は、追放処分となった。

 ブオナパルテの一族は、家屋敷を奪われ、数時間内に逃亡せざるを得なくなる。

 パオリ派の完全勝利であった。

 ブオナパルテ家は、コルシカ島を脱出後、トゥーロンで上陸すると、マルセイユに移住した。

 ナポレーネとコルシカは、完全に断ち切られたのである。
 
 1994年2月、パオリの要請により、コルシカ島にイギリス艦隊が到来した。

 イギリスは、コルシカ島を、フランス軍と戦うための拠点としたのである。

 コルシカ島は、イギリス王ジョージ3世が、国王を兼任し、「イギリス・コルシカ王国」となった。

 しかし、1995年、フランス軍の将軍、ナポレオンによって、コルシカ島は、再び、フランス領となった。


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