【正義】と【平和】

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 継之助は、幼少の頃、気性が激しく、腕白者で、負けず嫌いな性格であったと言われる。

 十代に入ると、剣術及び、馬術など、各々の師匠の下で、武芸を学んだ。

 しかし、彼は、師匠の教える流儀及び、作法には、全く、従わなかった。

 更に、反論して、自分勝手、即ち、武芸を自己流にしか、身に付けなかった。

 そのため、遂には、師匠から、始末に負えないと、厄介払いされた。

 その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で、陽明学に傾倒する。

 1842年(天保十三年)、数えで、十六歳の年に元服して、秋義を名乗るが、前述の通り、生涯、「継之助」を通称とした。

 継之助は、十七歳の年に、鶏を裂いて、王陽明を祀ると、補国を任とすべきこと、即ち、藩を支える、名臣になることを誓う。

 河井継之助の生涯の行動原理は、陽明学に基づいていると言っても、過言ではない。

 陽明学は、中国の明の時代に、王陽明の唱えた、儒学の一派である。

 王陽明は、科挙に合格した、明の官僚であったが、儒学のみならず、仏教、武芸、詩学など、様々な才能を持ち合わせていた。

 儒学者としては、稀有な軍事的才能を有し、三つの軍事的業績を挙げ、後世には、「三征」と呼ばれた。

 文武両道の中国史上の英雄である。

 日本の江戸幕府は、南宋の時代に、朱熹の唱えた、朱子学を正学としていた。

 朱子学を、簡潔に説明することは、不可能なため、本項では、割愛する。

 朱子学は、朱熹の生前には、弾圧されたが、明の時代に入ると、国教に定められた。

 明朝は、朱子学を支配者の教義としたため、体制擁護としての作用が肥大化し、本来の道徳主義の側面が、失われていた。

 王陽明は、道徳倫理を再生しようとして、形骸化した、朱子学の批判から出発し、時代に適応した、実践倫理を説いた。

 陽明学の根本思想は、心即理、致良知、知行合一である。

 心即理は、「性」及び、「情」を合わせた、心そのものが、「理」に他ならないと唱える。

 この説では、心の内の「性」=「理」を完成させるために、外的な事物の「理を」参照する、必要はない。

 致良知は、「良知」とは、『孟子』の「良知良能」に由来する言葉で、「格物致知」の「知」を指している。

 「良知」とは、貴賤に関わらず、万人が、心の内に持つ、天的な道徳知で、また、人間の生命力の根元でもある。

 天理及び、性が、天から賦与されたものであることを想起させる、言葉であるのに対し、「良知」は、人が、生来有するものである。

 そして、「致良知」とは、「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限り、その行動は善なるものとされる。

 逆に言えば、「良知」に基づく、行動は、外的な規範には、束縛されない。

 即ち、「無善無悪」である。

 知行合一は、「知」とは、認識を、「行」とは、実践を指す。

 心の外に「理」を認めない、陽明学では、経書など、外的知識によって、「理」を悟るわけではない。

 寧ろ、認識と実践、もしくは、体験を不可分と考える。

 即ち、「知」と「行」は、一体不可分で、仮に「知」と「行」が分離するのであれば、それは、私欲によって分断されているのである。

 陽明学は、朱子学と同様、簡潔に説明することは、不可能であるが、以上が、その概要である。


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