【正義】と【平和】

英雄千人をランキング。『千人の英雄伝』連載中。

全体表示

[ リスト ]

 1850年(嘉永三年)、継之助は、梛野嘉兵衛の妹である、すがと結婚する。

 梛野嘉兵衛は、二百五十石の側用人の家柄で、安政の藩政改革を主導した、村松忠次右衛門の母方である。

 なお、継之助の姉婿、佐野与惣左衛門は、藩主嫡子の牧野忠訓の附役であった。

 継之助は、青年時代から主に日本及び、中国の宋・明の時代の儒学者・哲学者の語録、明・清時代の奏議書の類の本を、写本した。

 読書法については、鵜殿団次郎と議論した際、多読を良しとする、鵜殿に対し、継之助は、精読を主張したという。

 継之助は、写本をし、暗記するまで、精読した。その書物への姿勢は、後の遊学の際にも、一貫していた。

 鵜殿団次郎は、長岡藩の藩校崇徳館で、学問を修めた後、江戸に遊学して、蘭学及び、英学を学ぶ。

 その才能を勝海舟に買われて、幕臣に登用されると、1862年(文久二年)に、蕃書調所の教授になり、1868年(慶応四年)には、軍艦役格より、幕府目付となった。

 同年には、長岡藩に、軍制改革に関する意見書を提出するなど、幕末の混乱に瀕した、藩のために尽力したが、明治元年に、三十八歳で、病死した。

 河井継之助と並ぶ、長岡藩の秀才であった、団次郎の死は、長岡藩の大きな損失であった。

 継之助は、小山良運、花輪馨之進、三間市之進、三島億二郎などの同年代の若手藩士達と日夜、意見を戦わせ、意気を通じていた。

 彼等は、周囲からは、水を漏らさぬほどに、結束力が、固いという意味で、「桶党」と呼ばれていたらしい。

 後年、「桶党」の人々は、継之助の主導する、藩政改革推進派の主要な協力者となった。

 継之助は、1852年(嘉永五年)、ペリー来航の前年に、江戸に遊学する。

 江戸には、既に、佐久間象山の許に、三島億二郎、小林虎三郎などが、遊学に来ていた。継之助は、まず、三島を仲介に、古賀謹一郎の紹介で、斎藤拙堂の門弟になった。

 斎藤拙堂は、朱子学者であったが、西洋の文物の中で、優れているものは、それを認め、和洋折衷を唱えた。

 継之助は、同じ頃に、佐久間象山の塾にも通い始めている。

 継之助は、遊学中、三島、小林達と、江戸の町を見物したり、酒を飲んだりと、自適の日々を送った。

 翌年の継之助は、斎藤の許を去り、古賀謹一郎の久敬舎に入門し、寄宿した。

 古賀は、儒学者の家系に生まれ、自身、儒学者であったが、洋学の必要性を、逸早く、感じ取ると、漢訳蘭書による、独学によって、西洋の事情を習得していた。

 継之助が、斎藤の塾を去ったのは、自分を高める、「会心の書」が無かったためである。

 その一方、佐久間象山の塾には、通い続けて、砲術の教えを受けた。

 ただし、継之助は、象山自身の人柄は、好きではなかったと言われる。

 継之助は、「佐久間先生は、豪いことは豪いが、どうも、腹に面白くないところがある」と後に長岡藩士語っている。

 古賀の久敬舎では、講義は、殆ど、受けなかった。

 しかし、久敬舎の書庫には、膨大な本があり、継之助は、『李忠定公集』に巡り合った。

 李忠定は、中国の宋の時代の武将で、継之助は、『李忠定公集』の中に、「経世済民」の文字を見出した。

 継之助は、『李忠定公集』を精読して、写本することに日々を費やした。

 そのため、継之助は、久敬舎の門人達からは、「偏狭・固陋」な人物と思われた。


[https://history.blogmura.com/his_bakumatsu/ranking.html にほんブログ村 幕末・明治維新]

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事