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 ボナパルト家が、マルセイユに亡命した後、ナポレオンは、フランス軍のニース駐屯の砲兵第四連隊に復帰し、大尉に昇進している。

 王政時代のフランス軍では、将校は、貴族出身者のみが、就任していた。

 革命が、進展するに伴い、王党派の貴族将校達が、大量に亡命したため、フランス軍は、将校が不足していた。
 
 ナポレオンが、コルシカの独立運動に参加して、一度は、役職を失いながらも、復職を果たした上に、大尉に昇進したのは、フランス軍が、慢性的な将校不足だったためである。

 当時のフランス軍は、組織としては、極めて、劣悪な状況にあった。
 
 1793年5月31日、ロベスピエールを中心とする、ジャコバン派の議員が、ジロンド派の議員を逮捕すると、革命の過激化に対し、南フランスのリヨン、アヴィニョン、ニーム、マルセイユの各都市は、王党派と結びつき、革命政府に対し、相次いで、叛乱を起こした。

 その叛乱の鎮圧を任されたのが、ジャン・フランソワ・カルトー将軍である。
 
 1751年生まれのカルトーの父は、七年戦争で負傷して、廃兵院で死去した、竜騎兵連隊の曹長であった。

 カルトーは、父と同様、軍籍に入り、竜騎兵を経験した後、歩兵に転属。しかし、画家を志して、1779年には、除隊している。

 その後、カルトーは、諸国を留学して、絵画を勉強すると、画家として、それなりに、成功を収め、馬上のルイ16世の肖像を描いた、『フランス国王、ルイ16世』などの何点かの肖像画を残している。

 フランス革命が、勃発すると、カルトーは、熱烈に支持した。

 カルトーは、パリで、国民衛兵隊に入隊し、革命初期の指導者である、ラファイエットの副官となった。

 しかし、カルトーは、次第に、共和政を支持するようになったために、立憲君主制支持者である、ラファイエットとは、袂を別つことになる。

 カルトーは、1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃に加わったため、ジャコバン派の軍人として評価された。

 カルトーは、風貌に威厳があり、通る声の持ち主であったため、旅団長に昇進し、アルプ方面軍の分遣隊1,700名の指揮を任され、パリを離れた。

 カルトーは、着任後、リヨンに向かう予定を変更すると、プロヴァンス地方の王党派の叛乱の鎮圧を命じられた。

 1793年7月16日には、叛乱軍の一部を撃破、7月25日には、アヴィニョンを占領する。

 そして、8月25日には、マルセイユを制圧することに成功した。

 その功績によって、カルトーは、将軍に昇進する。

 1793年9月、カルトーは、要港のトゥーロンの奪還の命令を受けた。

 トゥーロンでは、当初、革命の過激化に反対する、穏健派が、ジャコバン派を追い出した後には、王党派が、トゥーロンを支配した。

 王党派の指導者、ダンベール男爵は、イギリスとスペインの艦隊を港に引き入れると、トゥーロンの支配をイギリス海軍に委ねた。

 カルトー将軍の国民公会軍は、9月8日、オリウール村を経て、西側から、トゥーロンに到着した。

 カルトー軍の砲兵隊長である、ド=マルタン少佐は、オリウール村で負傷して、戦線を離脱していた。

 国民公会のオーギュスタンとサリセティによって、マルタンの後任に就任したのが、24歳の砲兵大尉、ナポレオン・ボナパルトであった。


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