【正義】と【平和】

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 特に、ハイバルの戦いでは、他のイスラム軍の指揮官が、陥落させることができなかった、ハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を、次第に高めた。

 マホメットの死後には、アリーは、後継候補の一人になったが、若年を理由に外された。

 前述の通り、実際には、アーイシャとアブー・バクルとの確執が、後継者から外された、原因であったと考えられる。

 第三代のカリフ、ウスマーンの死に伴い、656年、56歳の年に、第四代カリフに選出された。

 しかし、その前途は、多難であった。

 カリフに就任した年に、アーイシャ及び、ズバイル、タルハが、アリーに叛旗を翻した。

 ズバイルとタルハは、第二代のカリフのウマルが、その死の直前に、後継者候補に指名した、六人の内の二人で、最初期に入信した、古参のムスリムであった。

 ズバイルは、クライシュ族のアサド家の出身であり、アブー・バクルの呼びかけに応じて、ムスリムになった。

 バドルの戦いでは、アリーと共に斥候を務めた、アリーの戦友であり、マホメットの死の直後には、アリー及び、タルハと共に、ファーティマの家に立て篭もり、新たな指導者を選出する場に姿を現さなかったと言われる。

 ウマルの死後の後継者選出において、ズバイルは、自身の権利を放棄してまで、アリーを推薦している。

 そのズバイルが、何故、アリーのカリフ就任に反対したのかは、不明である。

 ズバイルは、一度は、忠誠の誓い=バイアを行って、アリーのカリフ就任を認めた。

 しかし、その直後、小巡礼=ウムラに出発することを口実に、タルハと共に、メディナを脱出すると、メッカに居住する、アーイシャに合流した。

 アーイシャ、ズバイル、タハルは、ウスマーン暗殺の首謀者は、アリーであると喧伝した。

 三人は、ウスマーンの血の復讐を大義名分とし、656年10月、ウスマーン支持者の多い、バスラに入城した。

 そして、反対する者達を投獄及び、殺害して、バスラを完全に掌握する。

 同時に、ウスマーン暗殺に関与した者達を処刑した。

 一方、メディナの住民は、アーイシャ及び、ウマイヤ家のムアーウィヤの報復を恐れたが、アリーの鼓舞によって、叛乱軍鎮圧の戦列に加わった。

 アリーは、ウスマーンの政策に対し、不満を抱いていた、アラブ人の多い、クーファに移り、戦いに備えた。

 656年12月、バスラの郊外ワーディー・サブアにおいて、アリー軍と叛乱軍は対峙する。

 アリーは、ズバイルの多くの非を指摘した後、マホメットの「汝が、不義を為している時に限って、彼と戦うものである」との言葉をズバイルに送った。

 その言葉に対し、ズバイルは、軍の引き上げを了承する。

 しかし、ズバイルの息子である、アブドゥッラーが、父を説得すると、ズバイルは、再び、アリーと対陣した。

 戦闘の前夜に、アリーは、叛乱軍の説得を試みて、和解を呼びかけ、一度は、和解が成立しかけた。

 しかし、夜間に、ウスマーン暗殺の参加者達は、処罰を恐れ、叛乱軍の陣営を襲撃した。

 叛乱軍は、アリー軍の攻撃と誤認して、戦闘の準備を再開する。

 アリーは、叛乱軍の動向を知ると、和解の意思がないとみなし、開戦を決意した。

 即ち、アリーと叛乱軍には、和解の意思があったが、ウスマーンを暗殺した、兵士達が、処罰を恐れて、アリーを戦闘に引きずり込んだのである。



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