【正義】と【平和】

英雄千人をランキング。『千人の英雄伝』連載中。

全体表示

[ リスト ]

 1853年(嘉永六年)6月、ペリーが、浦賀に来航し、「幕末」が始まる。

 継之助、数えで、二十七歳の年である。

 当時、幕府の老中であった、長岡藩主の牧野忠雅は、三島億二郎を、黒船の偵察に派遣すると共に、家臣達に対し、広く意見を求めた。

 継之助、三島、小林虎三郎達は、藩主に対し、各々、建言書を提出する。

 その内容は、共に藩政の改革に関してであったが、三島及び、小林は、その内容が、忠雅の不評を買い、帰藩を命じられてしまう。

 不評の理由は、不明である。

 継之助の建言は、忠雅の目に留まり、新知三十石を与えられて、御目付格評定方随役に任命されると、帰藩を命じられた。

 継之助は、『李忠定公集』全巻を写し終えると、古賀の久敬舎及び、江戸を去って、長岡へと戻った。

 継之助は、藩政の刷新を企図し、帰藩したが、藩主独断の人事に反感を持った、家老を筆頭に、藩上層部の風当たりが強く、結局、何もできないままに、二カ月程で、辞職する。

 継之助は、固陋な有様に、憤慨し、藩主に対して、門閥弾劾の建言書を提出した。

 1855年(安政二年)、藩主の牧野忠雅の世子である、忠恭のお国入りに際し、継之助は、経史の講義を行うよう命じられる。

 しかし、継之助は、「己は、講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら、講釈師に頼むが良い」と言って、藩命を跳ね除けたため、藩庁に叱責されている。

 継之助は、長岡において、射撃の練習に打ち込むと、その腕を上げる一方、三島億二郎と共に奥羽へ遊歴した。

 1857年(安政四年年)、継之助は、父の秋紀の隠居に伴い、河井家の家督を継いだ。翌年には、外様吟味役になる。

 継之助は、外様吟味役に就任後、早々に宮路村での争いを、解決へと導いた。

 しかし、1858年(安政五年)12月28日、継之助は、再び、江戸に遊学に出た。

 数えで、三十三歳の年である。

 翌年の正月15日、古賀の久敬舎に、再度、入塾した。

 継之助は、更に経世済民の学を修めるために、6月7日、江戸を発して、備中国の松山藩に向かった。

 松山藩は、江戸幕府開府前の1600年(慶長五年)から、徳川家の領地となり、幕府開府後は、天領となって、小堀政次、正一の父子が、代官を務めていた。

 1617年(元和三年)に、池田輝政の弟、長吉の長男、池田長幸が、六万五千石で入封し、松山藩を立藩する。

 しかし、二代藩主の池田長常は、1841年(寛永十八年)に、嗣子無く、死去したために、松山藩池田氏は、わずか、二代で、断絶した。

 翌年の1642年(寛永十九年)、備中国の成羽藩主、水谷勝隆が、五万石で移封される。

 勝隆は、交通路及び、水路の整備、玉島新田等の新田開発、検地政策、砂鉄採取による、鉄産業の奨励と振興、神社仏閣の造営などに努めて、藩政の基礎を固めた。

 勝隆の長男で、二代藩主の水谷勝宗は、父と同様、新田開発及び、水路の建設、城下町の建設等に尽力した。

 また、松山城を改修し、現存する、重要文化財の松山城の天守閣は、勝宗の代に、現在の姿となった。

 水谷勝宗は、1666年(寛文六年)、京極高国の改易時に、丹後国宮津城の守備を務め、1684年(貞享元年)、外様大名から、譜代大名に列せられた。


[https://history.blogmura.com/his_bakumatsu/ranking.html にほんブログ村 幕末・明治維新]

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事