【正義】と【平和】

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 山田方谷は、藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀な者には、農民、町人出身でも、藩士へ取立てた。

 また、目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いている。

 犯罪の取締を強化する一方で、寄場を設置して、罪人の早期社会復帰を助けた。

 下級武士に対して、一種の屯田制を導入すると、農地開発と並行して、国境等の警備に当たらせた。

 しかし、武士は、農地開発に従事されることに、強く反発し、方谷は、命を狙われたることもあった。

 そのため、方谷自身、長瀬に移住し、開墾に従事している。

 「刀による戦い」に固執する武士に代わって、農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者による、イギリス式軍隊を整えた。

 方谷自身、他藩を訪れて西洋の兵学を学んだ。

 この軍制は、長州藩の奇兵隊及び、継之助によって、長岡藩でも、模範にされた。

 方谷は、反対意見を受けたが、あくまで、藩主と家臣が、儲けるための政策ではなく、藩全体で、利益を共有して、藩の主要な構成員である、領民に利益を最大限に還元する、手段であるとして、批判を顧みることはなかった。

 事実、方谷は、松山藩の執政の期間には、加増を辞退して、自分の財産を減らしている。

 方谷の改革よって、五万石の松山藩の収入は、二十万石に匹敵すると言われるようになる。

 また、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。

 雄藩に準ずるほどの大規模な藩政改革を行い、後の長州藩等の手本になるものもあり、当時としては、画期的な政策であった。

 反対意見は、多かったが、藩主である、板倉勝静の「方谷の言う事は、私の言葉」との信頼関係の下に行われたのである。

 河井継之助が、松山藩の長瀬に到着したのは、1859年(安政六年)7月17日、三十三歳の年であった。

 山田方谷は、この年、五十五歳。

 方谷は、その五年前の五十歳の年には、松山藩の元締兼執政となり、更に、五十二歳の年には、年寄役助勤の地位に昇っていた。

 方谷が、長瀬に移住したのは、継之助が、松山藩を訪れた年である。

 継之助は、当初、農商出身の方谷への手紙に、彼の通称、「安五郎」と書くなど、尊大な態度に出ていたが、方谷の言行一致の振る舞い及び、藩政改革の成果を見ると、態度を改め、深く心酔した。

 継之助は、長瀬到着の当日に方谷に会い、弟子入りした。

 当時、長瀬の方谷の許には、会津藩士の秋月悌次郎、土屋鉄之助が、方谷の藩政改革の視察に来ていた。

 その前年には、長州藩の久坂玄瑞が、西洋兵学の訓練を視察していた。

 1857年(安政四年)、松山藩主の板倉勝静は、山田方谷の藩政改革が評価され、徳川幕府の奏者兼寺社奉行に任命されていた。

 しかし、大老の井伊直弼による、安政の大獄に対し、方谷の薦めに従って、強圧な処罰に反対し、寛大な処置を行った。

 その結果、井伊直弼の怒りを買い、1859年(安政六年)2月に、寺社奉行を罷免された。

 藩主の寺社奉行罷免は、松山藩にとっては、重大事件であった。

 そのため、山田方谷は、同年8月に、江戸の板倉勝静から、召命を受け、9月に江戸に向かった。

 罷免後の情勢分析、藩政の打ち合わせなどを行ったと思われる。

 継之助は、方谷の江戸出府時、9月18日に、松山藩を出発して、九州遊歴を行い、同年11月3日、再び、松山藩に戻っている。


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