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 アブドゥッラーは、一時は、イラク、エジプト及び、シリアの半分以上を勢力範囲に治め、ウマイヤ朝を圧倒した。

 692年、ウマイヤ朝の五代目のカリフ、アブド・アルマリクにより、692年、メッカは、陥落し、アブドゥッラーは、戦死した。

 以上、イスラムの初期の歴史を辿ったが、本項の主題に戻る。

 「シーア派」とは、何か?

 「シーア」とは、アラビア語で、「党派」を意味する、普通名詞である。

 即ち、「シーア」の言葉自体が、「派」を意味するため、「シーア」「派」との言葉は、本来、同じ意味の言葉を、二つ重ねているため、本質的には、正しくなく、「シーア」のみが、正しい。

 「シーア」は、イスラムの初期に、「アリーの党派」の人々を呼んだことに由来している。

 現在では、アリー及び、その子孫のみが、イスラム共同体を、「イマーム」=指導者として、率いることができると主張する、人々の「党派」である。

 それでは、「シーア」は、いつ、誕生したのか?

 預言者である、マホメットの死の直後、既に、アリーこそが、後継者に相応しいと支持する、多数の人々が、存在した。

 前述の通り、アブー・バクルが、初代のカリフに選出され、アリーは、後継者にはなれなかった。

 本質的に言えば、この時点で、「アリーの党派」=「シーア」は、存在していたのである。

 マホメットの死の直後、アリーと確執のあった、アーイシャと、その父のアブー・バクルが、アリーのカリフ就任に反対しなければ、「シーア」は、誕生しなかったのである。

 現在に至る、シーア派は、アリーとその子孫以外のカリフの存在を認めない。

 アリー以前の三代のカリフ、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの三人を、イスラム共同体=ウンマの指導者としては、認めず、第四代カリフのアリーこそが、指導者であると主張する。

 アリーのカリフ就任後、アーイシャ、ズバイル、そして、ウマイヤ家のムアーウィヤなど、「反アリーの党派」が、存在した。

 アーイシャとズバイルは、ラクダの戦いの敗北によって、隠遁及び、戦死し、イスラム共同体は、「アリーの党派」とムアーウィヤ派に分裂する。

 「アリーの党派」は、アリーの死後も、ムアーウィヤとの戦いを続け、アリーの息子で、マホメットの外孫のハサン、フサインこそが、マホメットの後継者に相応しいと主張した。

 しかし、ハサンは、ムアーウィヤと妥協して、隠遁する。

 ムアーウィヤの死後、その息子のヤズィードによって、フサインは、惨殺されてしまう。

 カルバラーの悲劇である。

 この悲劇によって、イスラム帝国の支配者である、ウマイヤ朝と、「アリーの党派」の分裂は、決定的となり、妥協の余地は、一切、消滅した。

 「シーア」では、マホメットの後継者を「イマーム」と呼ぶ。

 「カリフ」の本来の意味が、「代理人」、即ち、預言者マホメットの代理人であるのに対し、「イマーム」の本来の意味は、「指導者」及び、「模範となるべき者」である。

 即ち、イスラム共同体の指導者である。

 両者の違いについては、様々な解釈があるが、筆者の個人的見解では、「代理人」より、「指導者」の方が、強い「権威」を有すると思われる。

 その理由は、「代理人」=カリフが、ムスリムの選出によるのに対して、「指導者」=イマームは、「アリー及び、その子孫」との血統原理に基づくためである。

 なお、「シーア」は、アリーの子孫の中で、誰をイマームと考えるかによって、早い時期に分裂し、多くの分派が生まれた。


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