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 牧野忠恭は、1824年(文政七年)、三河国の西尾藩主である、松平乗寛の三男に生まれ、長岡藩の第十代藩主、牧野忠雅の養子となった。

 1858年(安政五年)、忠雅の死去に伴い、家督を相続すると、第十一代、越後国長岡藩主に就任する。

 先代の藩主、牧野忠雅は、奏者番、寺社奉行を経て、老中に昇り、席次は、老中首座の阿部正弘に次いだ。

 忠恭は、義父の忠雅と同様、1860年(万延元年)、奏者番に就任する。

 その二年後の1862年(文久二年)3月24日に寺社奉行に任命され、わずか、五カ月後の同年8月24日には、京都所司代に任命されたのである。

 継之助は、上洛すると、長岡藩主の牧野忠恭に、京都所司代の辞任を進言する。

 わずか、七万石の長岡藩が、動乱の京の都の所司代を務めることには、無理があった。

 更に、長州を筆頭とする、尊王攘夷派と、幕府の争いに巻き込まれることになる。

 忠恭は、継之助の進言を拒否した。

 この辺りの事情は、会津藩主の松平容保に対して、京都守護職の辞退を迫ったが、拒否された、会津藩家老の西郷頼母と同様である。

 しかし、忠恭は、同年の4月下旬、攘夷実行が、決定されると、京都所司代の辞任を決意する。

 牧野忠恭は、譜代大名として、また、先々代の忠精、先代の忠雅と、長岡藩牧野家は、二代に渡り、京都所司代、老中を歴任しているため、幕府への忠節を示す必要があった。

 しかし、牧野忠恭は、継之助に言われるまでもなく、七万石に過ぎない、小藩の長岡藩が、動乱の都の所司代を務める、危険性を、理解していた。

 一方、京都守護職の会津藩は、二十三万石の大藩であると同時に、「松平」姓を称する、親藩であったために、松平容保の辞退は、更に難しく、苦渋の決断であったと思われる。

 牧野忠恭は、幕府に対して、「当時の京都は、騒動続きであり、長岡藩のような小藩では、対応できない」として、1863年(文久三年)6月11日、京都所司代の辞任したのである。
 
 後任の京都所司代には、京の都の近国の十万石、山城国淀藩の稲葉正邦が、就任する。

 しかし、翌年、正邦は、老中に就任したため、京都守護職の会津藩主、松平容保の実弟、十一万石の伊勢国桑名藩主、松平定敬が、京都所司代に就任した。

 容保、定敬の兄弟は、京において、奮戦するが、戊辰戦争期、長岡藩と運命を共にすることになる。
 
 牧野忠恭は、京都所司代を辞任後、江戸へ戻るが、同年9月、幕府の老中に任命される。

 継之助は、公用人に命じられ、江戸詰となると、忠恭に、老中辞任を進言する。

 継之助は、時流を正確に見定めており、長岡藩は、幕府と距離を置くべきと考えていた。

 しかし、牧野忠恭が、継之助の進言を検討している最中に、辞任撤回の説得に訪れた、長岡藩牧野家の分家、常陸笠間藩主の牧野貞明を、継之助は、罵倒してしまったのである。

 継之助は、その責任を取って、公用人を辞任し、長岡へ帰藩した。

 牧野忠恭は、老中に留まるが、二年後の1865年(慶応元年)4月30日、幕末の政局が、混迷を極めると、老中を辞任した。

 忠恭は、継之助の才能を大きく、評価していたため、同年には、継之助を外様吟味役に再任し、更に群奉行に任命する。

 継之助は、若き日から、「自分が、長岡藩の家老になるしかない」と信じていたが、その実現の時が、迫っていた。


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