【正義】と【平和】

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 薩摩・長州を中核とする、新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いに勝利した後、東征軍を編成。東海道・東山道・北陸道の三軍に分かれて、進軍した。

 北陸道の新政府軍を指揮したのは、北陸道鎮撫総督府の長州藩士、山縣有朋及び、薩摩藩士の黒田清隆であった。

 大政奉還によって、徳川幕府が消滅すると、無能な家老達の率いる、北陸道の諸藩は、新政府軍の勢威を恐れ、恭順すると、新政府軍に兵力を提供した。

 北陸道の新政府軍は、越後国の旧幕府軍の平定及び、会津藩征討のため、長岡近郊の小千谷を占領した。

 新政府軍が、小千谷に迫る頃、長岡藩内では、家老首座連綿の稲垣平助家の稲垣茂光を筆頭に、先法家の真木内蔵介、上士の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門等が、新政府軍への恭順・非戦を主張した。

 継之助は、恭順派の拠点である、藩校の崇徳館を、腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて、監視させ、その動きを封じ込めた。

 その後、抗戦・恭順を巡る藩論を抑え、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ることにした。

 会津藩は、佐川官兵衛を使者として、長岡藩に奥羽諸藩の同盟への参加を申し入れるが、継之助は、同盟への参加を拒んだ。

 継之助は、新政府軍と奥羽諸藩、即ち、西軍、東軍の双方に味方せず、長岡藩の「獨立特行」を主張したのである。

 継之助の獨立特行は、横浜において、スイス領事の書記官を務めた後、商人に転じた、エドワルド・スネルとの交流の中で、ヨーロッパにおける、スイス連邦共和国の武装中立の話を聞いて、影響を受けた、可能性は高い。

 また、アメリカ合衆国第五代大統領、ジェームズ・モンローが、ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を提唱した、モンロー主義の影響を受けたとも言われる。

 何れにせよ、わずか、七万五千石の長岡藩は、「獨立特行」、武装中立を主張したのである。

 継之助は、1868年(慶応四年)5月2日、恭順工作を仲介した、尾張藩の紹介によって、新政府軍の軍監、岩村精一郎と、小千谷の慈眼寺において、会談した。

 長岡藩の運命及び、北越戦争を決定付けた、「小千谷談判」である。

 小千谷を占領していたのは、北陸道ではなく、東山道の新政府軍であったため、継之助と会談したのは、北陸道の軍監の山縣及び、黒田ではなく、岩村精一郎である。

 岩村は、1845年(弘化二年)、土佐藩多郡に生まれ、戊辰戦争の年、数えで、二十四歳であった。

 岩村は、土佐藩校の文武館において、蘭学及び、砲術を学んだ。

 戊辰戦争の前年である、1867年(慶応三年)9月、兄の岩村通俊の鉄砲購入に随行して、長崎へ赴いた。

 その地で、土佐藩の監察、佐々木高行の添え書きを得て、11月に上京し、陸援隊に入隊した。

 その直前に坂本龍馬及び、中岡慎太郎が、近江屋において、暗殺される。

 即ち、岩村は、龍馬及び、陸援隊隊長の中岡とは、会ったことはない。

 岩村は、龍馬及び、中岡の暗殺者と噂された、紀伊藩三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃した、天満屋事件に参加した。

 その後、鷲尾隆聚の高野山出兵に加わっている。

 陸援隊士の経歴を持つがために、岩村は、新政府軍の東山道先鋒総督府の軍監及び、応接係として、各地を転戦した。


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