【正義】と【平和】

英雄千人をランキング。『千人の英雄伝』連載中。

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 勝海舟は、西郷隆盛との会談によって、江戸無血開城を成功させ、黒田清隆は、後に、五稜郭の榎本武揚を降伏させることに成功した。

 しかし、河井継之助は、岩村精一郎との談判に失敗し、山縣有朋は、不在であったため、長岡藩と新政府軍は、戦争に突入する。

 七万五千石の長岡藩の兵員は、2,000人であるが、ガトリング砲を筆頭に、最新鋭の装備を有していた。

 長岡藩を攻める、新政府軍は、長州藩の567名、支藩の長府藩の200名、薩摩藩の740名に加え、富山藩の442名、高田藩の380名、その他の出動諸藩は、四十を数え越えており、北越の征討軍総数は、三万人を越えていた。

 しかし、新政府軍に帰順した、諸藩は、会津及び長岡に同情しており、兵の士気は低く、主戦力は、薩長両軍(長府藩含む)の1,507名でしかない。

 富山藩、高田藩を始め、諸藩の多くは、半ば、新政府軍に脅迫され、動員されたに過ぎなかったのである。

 「小千谷談判」の翌日の5月3日、新政府軍は、長岡藩の入口に当たる、信濃川右岸の榎峠を占領した。

 5月7日、榎峠を経て、長岡城へ攻め込むとの作戦が、各藩に伝えられた。

 5月9日、新政府軍の主力は、小千谷の本営を出ると、信濃川左岸、三仏生に軍を進めた。

 信濃川を渡り、右岸の部隊と合流して、長岡城に進撃する予定であった。

 しかし、新政府軍の主力は、降雨のために増水した、信濃川を渡れず、両岸の軍勢は、合流できないまま、立ち往生してしまう。

 一方、長岡藩は、軍事総督である、河井継之助の指揮下、榎峠の奪還を目指した。

 まず、榎峠の南に当たる、朝日山を確保し、付近の山に守兵を置いて、城下の入口を固めたのである。

 榎峠を守る、新政府軍は、尾張藩の一小隊と砲二門、上田藩一小隊に過ぎず、長岡軍は、榎峠を攻め始めた。

 榎峠は、天然の要害であったため、小部隊ながら、守備隊は、奮戦し、更に、三仏生の新政府軍が、支援の砲撃を開始したため、長岡軍は、苦戦した。

 しかし、最終的に、長岡軍は、5月9日中に、榎峠の奪還に成功する。

 同日の夕刻には、信濃川の水位が、わずかに下がったため、長州藩奇兵五番小隊が、尾張藩一小隊と共に、渡河に成功した。

 11日までには、新政府軍の多くが、信濃川を渡り、榎峠を攻撃したが、今度は、長岡軍が、天然の要害を利用したため、榎峠では、激戦が、繰り広げられた。

 榎峠の戦いの最中、柏崎にいた、北陸道軍の参謀、山縣有朋は、奇兵隊参謀の時山直八と共に小千谷の本営に到着した。

 山縣は、榎峠を奪還するには、南の朝日山を占領する、必要があるとの結論に達した。

 山縣は、小千谷に引き返して、左岸の三仏生に残っている、奇兵一番小隊を援軍に、再度、信濃川を渡ることにした。

 時山直八は、吉田松陰の松下村塾の出身で、八月十八日の政変、禁門の変、長州征伐等、数々の修羅場において、活躍した、尊王攘夷の歴戦の志士であった。

 時山は、5月13日の早暁、朝日山を濃霧が覆っていることに目を付けた。

 時山は、命令の行き違いなどにより、増援の奇兵隊の到着を待ちかね、総攻撃の命令を下すと、自身、先頭に立って、朝日山の断崖を登った。

 霧が晴れた時、その時山の前には、長岡軍の精鋭及び、桑名藩の立見鑑三郎が、突如、姿を現したのである。


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