全体表示

[ リスト ]

あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

7/11(木) 6:01配信

現代ビジネス

 人呼んで、殺しの柳川――。大阪の在日社会で身を立てた柳川次郎は、最恐軍団・柳川組の初代組長として、過去、幾度も仁侠映画の題材となるなど、武勇伝が語り継がれている。しかし、堅気となった後、日韓外交を陰で支え、在日社会の地位向上にも奔走したという事実は、ほとんど知られていない。『殺しの柳川 日韓戦後秘史』著者の竹中明洋氏が国家を動かしたヤクザの秘話を明かす。

平成ヤクザ界最大の謎「宅見勝若頭暗殺の深層」をキーマンが明かした

あのフィクサーが語った

 7月初め、ソウルの江南で私はその男と会った。いつものように、はにかみながら、握手を求めてくる。近くの食堂で一緒に昼食を食べることになった。

 「柳川先代も喜んでるんちゃうか」

 大阪弁でそう話すのは、かつて財界のフィクサーとも呼ばれた許永中氏だ。大阪の中津に生まれた在日韓国人で、表の政財界と裏社会をつなぐその特異な人脈を武器に、バブル経済の時代に圧倒的な存在感を見せた。

 だが、バブル終焉と軌を一にするかのように、1991年に「戦後最大の経済事件」と言われたイトマン事件で特別背任などにより逮捕され、服役を終えた現在はソウルでビジネスを手がける。

 この日、私が許永中氏と会ったのは、彼が取材に協力してくれた拙著『殺しの柳川 日韓戦後秘史』(小学館)を手渡すためだった。刷り上がったばかりの本を封筒に入れて差し出すと、許永中氏は「昼間やけど一杯ぐらいなら大丈夫やろ」とビールを頼んで出版を祝ってくれた。

 許永中氏に初めて会ったのは、平昌オリンピックの真っ最中だった昨年3月のことだ。日本のマスコミの取材はほとんど受けないはずだったが、それでも応じてくれたのは、柳川次郎を通して大阪の在日の戦後の歩みを描きたいという私の取材趣旨に関心を示したからだろう。

 会うなり許永中氏はこう口にした。

 「あの人はね、私ら大阪の在日にとってエースいうんかな。一緒に北新地で飲んでるいうだけで、えらい誇りに思ったもんですわ」

力道山を囲む会に現れた、黒シャツの男

 柳川次郎とは、山口組きっての武闘派・柳川組の初代組長として、「殺しの柳川」の異名で恐れられた人物である。1923年に日本の植民地統治下の釡山で生まれ、本名を梁元錫(ヤン・ウォンソク)という。7歳の時に母や弟とともに海峡を渡り、大阪で在日韓国人として生きた。

 柳川が58年に大阪のキタで結成した柳川組は、構成員の多くが朝鮮半島にルーツを持っていたことで知られる。民族的な紐帯を武器にした圧倒的な戦闘力を持ち、結成後わずか10年足らずで全国に勢力を広げ、1700人もの構成員を抱え込んで五大広域暴力団の一角に指定されるほど爆発的に膨張した。しかし、日本警察を挙げての集中的な取り締まりを受け69年に解散に追い込まれる。

 堅気となってからは、海峡を挟んだ二つの国の橋渡し役たらんとして日韓を行き来することに生涯を費やした。本国との太いパイプを築いた柳川は、韓国の情報機関と深く関わり、80年代の全斗煥(チョン・ドファン)政権時代には政権中枢にまでその影響力が及んだ。

 柳川が亡くなってからすでに30年近い。生前の柳川を知る関係者も少なくなっているなか、ようやく辿りついたのが許永中氏だった。

 許永中氏は47年生まれだから、柳川とは二回りも年齢が違う。初めて柳川を見たのは、まだ小学6年か中学1年の頃だったという。場所は大阪の西天満にあった大阪報知新聞である。

 大阪報知新聞は、柳川組の副組長だったこともある加藤武義が社長をしていた新聞社だ。その日は大阪報知新聞が主催する形で、プロレス興行のために大阪を訪れていた力道山を囲んで食事会が開かれ、朝鮮半島出身の力道山をもてなすため大阪の在日が集まった。

 「民団(在日本大韓民国民団)の北大阪支部長だった父がこの会に呼ばれていたので、私も紛れ込んだのですが、会場の隅で待っていると、黒シャツの大柄な体格の人が現れたんです。ものすごい恐ろしい目つきで、それだけでグッときそうなほどの迫力ですわ。オーラも半端ない。初めて間近に見た伝説上の人物言うんかな。それが柳川さんやったんです」



.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事