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蕨姫(わらびひめ、生没年不詳)は、平安時代末期の女性。平家一門の平時忠の娘。本名は不明。『尊卑分脈』で源義経とされる。能登国(現石川県能登半島)の伝承で蕨姫と呼ばれる。

 
2006.01.25 平時忠
平清盛の義兄弟だった、平時忠について書いてみる。

平時忠

生没年:1128年〜1189年

父:平時信
母:藤原家範の娘

室:藤原領子
 藤原顕時の娘。洞院局とも言う。

清盛と同じ桓武平氏ではあるが、武家となった高見王の子孫とは異なり、代々都にあって中流公家としての命脈を保ってきた高棟王の子孫である。
豪毅で理論家肌の政治家。平関白と呼ばれ世人からは恐れられたそうだ。

姉・時子が清盛に嫁いだことと妹の滋子が後白河法皇から寵を受けていたために昇進していく。
1149年、従五位下に叙せられる。
1161年、滋子が憲仁親王(後の高倉天皇)を出産したのに際し、親王を皇太子に立てようとして失敗する。
二条天皇の怒りを買い官職を解かれ、出雲国に流される。
1165年、六条天皇の即位の恩赦により京へ復帰する。
1170年、再び流罪。

女院となった滋子の兄、又は当時権勢を誇っていた清盛の弟と言う立場で持ち前の政治手腕によってめざましい出世を遂げていく。
1174年、従二位に叙せられる。
この頃、平家の栄華を称えて「一門に荒ざらん者は皆人非人なるべし」と発言し、周囲の人より反感を買ったとされる。
清盛の死後、名義上の当主である宗盛に代わり実質上の指導者として君臨し、また平家軍の総大将も知盛が勤めていたが、謀や策を弄していたのは時忠であったとも言われている。

1183年、正二位権大納言に昇進するが、他の平家一門と共に都落ちする。
1185年、壇ノ浦の戦いで捕虜となる。
このとき、源義経に没収された重大な文書を始末するために娘の一人を義経の妻として献上し、まんまとその文書を処分させたと言う。
神器の返還により死罪を免れ、流刑となる。
能登国に流され、そこで生涯を終えたという。

公家にしては豪放な性格であり、腕力にも優れていたことから、武家に生まれていれば天下を取れたと評される。
しかし、周囲の反感を買う言動や、高倉天皇擁立の陰謀が露見されるなど、怪気炎をあげるだけで軽率な人物であったことは否めない。
検非違使としては都を荒らす盗賊に取締りに手腕を上げたという。



子:
平時実    生没年:1151年〜1213年
 時忠の長男。妻は吉田経房の娘。
 左近衛権少将兼讃岐守となったため、讃岐少将と呼ばれた。
 1180年、中原親能を捜索。
 1183年、左近衛中将へ。
 1185年、壇ノ浦にて捕虜となる。
 妹が義経の妻、蕨(わらびひめ、生没年不詳)となったため密接な関係を持つようになる。
 周防国に配流が決定するが病を理由に配流を延期される。これは時実を側近にしようとしたからであるとも言われている。
 源義経と京から逃亡するが、摂津大物浦で転覆し帰京する。
 村上経業より捕縛され、鎌倉へ移送される。
 1186年、京から上総国へ配流。
 1189年、召還され、正四位下となる。
 1211年、従三位へ昇進。
 1213年、逝去。
 生年: 仁平1 (1151)
没年: 建保1.1.28 (1213.2.20)
鎌倉初期公卿平時忠長男。仁安1(1166)年,叙爵同日越後守に就任。嘉応1(1169)年,父に連座して解官されるが,翌年讃岐守に復帰。正四位下左中将に至るが,寿永2(1183)年平氏都落ち同行して再度解官。文治1(1185)年,壇の浦の戦後に父と共に捕らえられて,周防配流決定したが,京に留まる。源義経挙兵に同行したが,捕らえられて鎌倉に連行されたうえ,上総に配流された。文治5年に許され,建暦1(1211)年従三位に叙し公卿に列したが,2年後に頓死動乱のなかで翻弄された生涯であったが,時実自身も「心猛キ人」であったという。
平 時実(たいら の ときざね、仁平元年(1151年) - 建暦3年1月29日1213年2月21日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿桓武平氏高棟王流、権大納言平時忠の長男。室の吉田経房女との間に時秀と一女がある。官位従三位左中将。讃岐を号す。

経歴 [編集]

仁安元年(1166年)に叙爵されると同時に越後となり、讃岐守・左近衛少将を経て、寿永2年(1183年)には正四位下・左近衛中将に叙任される。
平家の都落ちに従って解官元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦で捕らえられて京に戻り、まもなく周防国への流罪が決まったが、義兄弟となっていた源義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月、義経が源頼朝と対立して都を退去するとこれに同行するが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散してに戻る途上で村上経業の弟・禅師経伊に捕らえられた[1]
その後、鎌倉に護送され、文治2年(1186年)正月に上総配流された。文治5年(1189年)に赦免されて帰京。建暦元年(1211年)には従三位に叙された。公家でありながら「心猛き人」と評された

平時家    生没年:?〜1193年
 時忠の次男。妻は上総広常の娘。 
 1168年、六位蔵人。美作守。建春門院少進侍従。
 1176年、右近衛権少将。
 1177年、従四位下。
 1179年、継母・藤原領子の讒言にて解官される。
 1182年、源頼朝と対面し鎌倉に仕官する。
 1185年ごろ、時家から信時と改名する。
 1193年、鎌倉にて没。

平時定
平時国

 平家であることを捨て、帰農し時国と姓を変え輪島に移り住んだと言う。
 時国家は困窮していた近隣農村の救済を図り、この地を支配する豪農として長きに渡り繁栄し、江戸時代には天領、大庄屋として名字帯刀を許されたという。

平道忠
平時康
平時宗

(藤原頼実室)
(中山忠親室)
(松殿帥家室)
(近衛道経室)
 建春門院女房(小宰相)。
京の君(源義経妻)
 時忠の能登配流に同道という。

猶子:
平時兼    生没年:1168年〜1249年
 少納言・平信国の子。伊豆国司。

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