ふるさとのブログ

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一皿に何品も載せる盛り付けこそが「トルコ風」
 
トンカツ、カレーピラフ、スパゲッティーを1つの皿に盛ったもの。
大人版お子様ランチ(なんじゃそりゃ)などと言われたりもする。

これがどういうわけか長崎では洋食を扱っているところであれば
たいていは置いてあるほどのメジャーな存在。
 
⇒盛り付けが今一。。。。。ですね。。
 
 別名は洋風のチャンポンとも呼びます。
永井隆 ( ながいたかし )

 

http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/images/089-1.jpg
永井博士は世界の平和を祈った
 ピカッ! と青白く発した光が目の前をふさいだとたん、 猛烈 ( もうれつ ) な 爆風 ( ばくふう ) が体を宙に吹き飛ばしました。
 その日、昭和二十年(一九四五年)八月九日午前十一時二分、長崎に人類史上二発目の 原子爆弾 ( げんしばくだん ) が落とされたのです。 永井隆 ( ながいたかし ) 博士は、このとき 爆心地 ( ばくしんち ) からわずか六〇〇メートルの所にあった長崎医科大学 放射線 ( ほうしゃせん ) 科研究室で 被爆 ( ひばく ) し、右半身いたるところが切れてしまいました。特に、右の目の上と耳のあたりに大傷を負い、血が噴き出して、右の目は見えなくなりました。
 その直後、看護婦長を先頭に研究室の学生たちがぞくぞくと駆けつけてきました。まず急がねばならないのは火の回った病室から死傷者を救出することです。彼らを火の来ない丘の上に引き上げ、そこで手当てを始めました。手当てを待たずに死んでしまう人も多くいました。 奇妙 ( きみょう ) なことに傷が一つもなく、内出血らしい症状もなく、ただ全身の脱力を訴えている人が突然ぽっくり息を引き取ることもありました。
 自分の体もかまわず懸命に 救護 ( きゅうご ) にあたった永井博士は、夕方になってひととおり手当てを終えたところで、そのまま深い眠りにつきました。その後、何度も気を失ったりしながら、生き残った看護婦や学生たちと昼夜なく被災者の救護を続けました。
 そして、三日目の夕方、死傷者の処置も一応終えたので、永井博士はようやく家へ帰りました。しかし、永井博士の家があった場所は、一面の焼け野原となっていました。台所があった場所で、永井博士は黒い 塊 ( かたまり ) を見つけます。それは焼けつくされたなかに残った妻の 遺骨 ( いこつ ) でした。そばには十字架の付いたロザリオの 鎖 ( くさり ) が残っています。焼けこげたバケツに妻の遺骨を拾って入れましたが、その遺骨にはまだ温かさが残っています。永井博士はそれを胸に抱いて墓へ行きました。
 「自分の骨を近いうちに妻が抱いていく予定であったのに。運命は分からぬものだ」
 実は、その二ヵ月前、永井博士は「あと三年の命」と 診断 ( しんだん ) されていたのです。長年、永井博士は放射線科の医者として 結核 ( けっかく ) 患者の集団検診をしていたのですが、戦時中でフィルムが不足していたこともあって放射線検査を直接自分の肉眼で 透視 ( とうし ) して行っていました。そのため大量の放射線を受け、 白血病 ( はっけつびょう ) にかかっていたのです。
 永井博士は「あと三年の命」と宣告された夜、妻にすべてを打ち明けました。そのとき、妻は
 「生きるも死ぬるも神様のご光栄のためにネ」
とにっこり笑っていいました。妻は、先祖代々キリシタンの 信徒頭 ( しんとがしら ) を務めた家系で、永井博士はその家に下宿したことからカトリック信者となり、 洗礼 ( せんれい ) を受けていたのです。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/images/089-2.jpg
顕微鏡で研究中の永井博士
 被爆から四日目、永井博士は二人の子どもの 疎開 ( そかい ) 先に救護所を開設しました。
 「国は 敗 ( やぶ ) れた。しかし、負傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。私たちの仕事はこれからではないか。国家の 興亡 ( こうぼう ) とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本来の務めである」(「長崎の鐘」より)
 このときの永井博士の言葉です。
 すると私も私もと皆立ち上がり、それから約二ヵ月間、巡回診療を行って多くの人々を助けるとともに、「 原子爆弾救護報告書 ( げんしばくだんきゅうごほうこくしょ ) 」をまとめるなど 原爆 ( げんばく ) の研究も行いました。
 翌年、永井博士は白血病の悪化で寝たきりとなりましたが、カトリック信者が建ててくれた 畳 ( たたみ ) 二 帖 ( じょう ) ほどの小さな家「 如己堂 ( にょこどう ) 」で、「長崎の鐘」や「この子を残して」を始め十数冊を執筆し、 廃虚 ( はいきょ ) のなかで生活にあえぐ人々を 慰 ( なぐさ ) め、励まし続けました。
 また、これらの本の出版で得た印税の大部分をさまざまなところに 寄付 ( きふ ) したり、荒れ野となってしまった 浦上 ( うらかみ ) 地区を「花咲く丘」にしようと、桜の苗木一〇〇〇本を浦上 天主堂 ( てんしゅどう ) や 山里 ( やまざと ) 小学校などの周辺に植えました。
 さらには、「平和を」と記した書約一〇〇〇枚を、国内を始め外国にまで送り永久の平和を強く訴え、原爆によって打ちひしがれた子どもたちのために自分の財産を投じて「うちらの本箱」と名付けた図書室をつくりました。
 このように、長崎の 復興 ( ふっこう ) に大きく 寄与 ( きよ ) した永井博士は、あと三年の命といわれながら六年間人々のために生きて、四十三歳でその生涯を閉じました。永井博士の功績は、現在「長崎市永井隆記念館」に残されています。


【出典、参考文献】
「長崎の鐘」永井隆/「ロザリオの鎖」永井隆/「この子を残して」永井隆/「花咲く丘」永井隆/「長崎市永井隆記念館リーフレット」/「展示物紹介パンフレット」

66)誰でしょう?

 
 長崎人は誰でも知っています。
 
 
蝉時雨の暑い真夏の1945年8月9日11時2分、世界が真っ白い光りにつつまれ、すさまじい爆風と共に超高熱が走った。米軍機から長崎に原爆が落とされたのである。

 博士はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。

「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。

 見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。

 わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。
 台所で死んでいた。

 私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

 多くの研究資料が灰となり絶望感に打ちひしがれた博士は、目の前の新しい現実に立ち向かわねばならないことに気づき、救護活動に立ち上がった。そして新たな課題まだだれも研究したことのない病気、原爆症の研究が待っていた。

 おびただしい原爆症患者、あいつぐ死亡者。
 なんとか助けたいという思いで患者を探し歩き診察したが、とうとう自らも危篤状態におちいり、無念にも救護活動を打ち切らざるを得なくなった。

被爆した博士は、右半身に多数の硝子片切創を負い、特に右耳前部の傷は深く、右側頭動脈が切断されるほど重傷だった。
 滝のごとく噴き出す鮮血を、三角巾で縛っての負傷者の救護活動だったが、血が止まらず失血のため倒れた。
 9月10日ごろ原子病の症状が現われ、傷が壊死し始め高熱が続き昏睡状態に陥った。

 薄れる意識の中で
「光りつつ 秋空高く 消えにけり」

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