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2011/1/8(土)
クリスマスポテトサラダ、ちゃわん蒸しを料理して送ったばい。
1/9(日)今日の夕方に着くらしい。
久しぶりにお袋の味だろうね。。。返事が楽しみバイ。。。。
味わって食べてくださいね。
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JRJR
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平時実出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/08/30 16:05 UTC 版)
平 時実(たいら の ときざね、仁平元年(1151年) - 建暦3年1月29日(1213年2月21日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の長男。室の吉田経房女との間に時秀と一女がある。官位は従三位・左中将。讃岐を号す。
経歴平家の都落ちに従って解官。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦で捕らえられて京に戻り、まもなく周防国への流罪が決まったが、義兄弟となっていた源義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月、義経が源頼朝と対立して都を退去するとこれに同行するが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散して京に戻る途上で村上経業の弟・禅師経伊に捕らえられた[1]。
その後、鎌倉に護送され、文治2年(1186年)正月に上総に配流された。文治5年(1189年)に赦免されて帰京。建暦元年(1211年)には従三位に叙された。公家でありながら「心猛き人」と評された[2]。
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平時忠出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/11/01 07:57 UTC 版)
平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。
生涯生い立ち時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている[1]。この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。
時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」[2]とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。しかし『吾妻鏡』には、時忠の死去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている[3]。これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とあり、時忠が時子の弟であることは間違いないと思われる。
久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使・左衛門少尉となる。久安5年(1149年)4月に叙爵して、蔵人・検非違使の任を離れた。時忠の若い頃の官歴には取り立てて見るべきものはない。非蔵人から六位蔵人となる階層の人物は、その階層で生涯を終えるのが通例だった。父の時信が五位止まりで、母の身分も低いことから、時忠も本来ならそれ以上の昇進は望めなかった。そのため、姉の時子とその夫・清盛の庇護を受けていたと推測される。仁平4年(1154年)8月8日の鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式に、時忠は清盛と共に院司として列席している[4]。
憲仁親王擁立と配流平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使・右衛門権佐に抜擢された。翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。さらに10月には右少弁も兼任する。高棟流平氏は実務官人の家系だったが、太政官の事務を処理する弁官を輩出していたのは別系統の時範の子孫であり、時忠の系統は主に院や摂関家の家司として活動していた。時忠が弁官に任じられた要因としては、清盛の後押しのみならず、時忠本人の実務能力の高さも大きく作用したと考えられる。
この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。平治の乱の後、政治の主導権を巡って後白河上皇と二条天皇が激しく対立する中で、応保元年(1161年)9月3日、妹の滋子が後白河の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産した。その直後の15日、時忠は清盛の弟・教盛とともに二条天皇により解官された。『愚管抄』によれば「ユユシキ過言」をしたのが原因であったという。その内容は定かでないが、甥である憲仁親王の立太子を公言した可能性が高い。翌年6月、院近臣・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。教盛が短期間で赦免されたのに対してはるかに重い処罰であり、二条天皇親政派が時忠を強く警戒していたことがうかがわれる。この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。
召還、公卿昇進永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、時忠は召還される(9月14日)。翌仁安元年(1166年)3月に本位に復すと、4月に左少弁、6月には右中弁・検非違使佐・左衛門権佐・五位蔵人を兼任し三事兼帯となった。10月10日には、5年前に果たせなかった憲仁親王の立太子が実現する。翌月、清盛が内大臣となり、時忠も蔵人頭に補された。清盛の大臣就任に不満を抱き、五節の節会に欠席した藤原朝方・実家が解官されたことによる後任人事だったが、非蔵人から累進して蔵人頭にまでなったのは極めて異例のことだった。位階も正五位下から従四位下に昇叙され、翌仁安2年(1167年)正月に正四位下・右大弁、2月11日には参議・右兵衛督となり、召還されてわずか2年余りで公卿への昇進を果たした。
仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。滋子の叔父・信範は教盛とともに蔵人頭となり、時忠は従三位に叙せられた。清盛が出家して政界を表向き引退したこともあって、高倉即位後の政治は後白河が主導権を握った。時忠も滋子の兄という立場から、後白河の側近として活動することになる。7月3日、右衛門督・検非違使別当に就任するが、尉・佐を歴任して別当になったのは時忠が初めてだった。8月には権中納言となる。同月、清盛の致仕により空席となっていた太政大臣に花山院忠雅が任じられ、時忠は慶賀の儀式に出席している。12月、伊勢神宮の正殿が焼失すると、翌嘉応元年(1169年)正月、復興のための公卿勅使として伊勢に派遣された。4月に滋子が建春門院の院号を宣下されたことにより、女院別当に補される。11月に新帝の八十嶋祭が盛大に執り行われ、時忠も公卿として行列に加わった。後白河院政は平氏一門の協力で磐石なものとなり、政情も安定するかに見えた。 |
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子供夫婦より還暦祝いで旅行ギフト券をプレゼントしてくれました、
なんとも嬉しいではありませんか。。。。感謝
早速、旅行の計画します、有難う。
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●下記は 平成9年 桜月 に書いた一句です。
戦に破れ、刃が折れ心身ともに疲れ果てた平家の落人のごとく、 短命の桜が散る時期を同じくして去るのは非常に心残りである。 されど戦場に傷跡を残すのは武士として恥である、 去る人、焼け落ちた城を守る人とともに、傷跡をのこさぬよう 務めなければならない。 |





