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昭和維新 楯の会、市ヶ谷
1970/11/25 没
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さて、誰でしょう?
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日大に入ってからは演劇と左翼思想に関心をもち、仲間の女優の毛利利江(伊藤敏子)に惚れて結婚届を書いた。すでにアナーキーな感覚が横溢していたとおもうのだが、石川三四郎に本を借りにいったときにレーニンの『国家と革命』にゆさぶられると、これをさかさまに転倒したくて『革命と国家』を書こうとするのだが、これはまとまらず、21歳で日本共産党に入党した。
昭和6年のことだから、むろん地下生活である。農民闘争に可能性を感じて全国農業会議のようなものを組織しようとして、しきりに各地を動いた。 有名な豊多摩体験をえたのは22歳のときで、これは治安維持法で50日ほど留置所に据え置かれ、ついで起訴されて豊多摩刑務所に1年以上を過ごしたときのことをいう。 この獄中で、埴谷は日本と西欧の思想書を次から次へと読み、とくにカントの『純粋理性批判』の「先験的弁証論」に震撼させられて、スティルネル(スティルナー)とカントの合着を試み、今後、自分は「自我・宇宙・最高存在」の三者が重なる領域で思索しなければならないという方向性を確立した。 |
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ご冥福を申し上げます。。。。
「戦後最大の思想家」「知の巨人」の権威的イメージは、初対面で溶解する。 「マス・イメージ論」などで、生産から消費へと社会構造が変容した時代の潮流を、誰よりも早く読み取り分析した功績も大きい。
1980年代の高度消費社会を積極的に評価、女性誌にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場したりした。
後に、作家の埴谷(はにや)雄高(ゆたか)さんと消費社会をめぐる論争に発展。
その姿は「時代はこんな軽みを持つようになった」と宣言しているようだった。
その軽みは文学や思想、サブカルチャーを同列に論じる視点と重なり、その後の評論に生き続けた。
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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Tokugawa_Yoshimune.jpg/260px-Tokugawa_Yoshimune.jpg
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