|
『純粋法学 第二版』 ケルゼン著・長尾龍一訳 岩波書店 2014
ここにきて『純粋法学 第二版』が訳出された。1960年発表であるから、半世紀を越えてついに日本語訳されたわけである。
この訳本、私には遠き学問の世界を考えるに、実に興味深いものに思える。以下つれづれ思いつくまま挙げてみよう。
1 なぜここまで引っ張ることになったのか。
翻訳者の長尾龍一・東京大学名誉教授は1938年生まれである。つまり、教授が研究生活を始めた頃にちょうどこの第二版は出版されている。教授はある程度の振幅はあるものの、ずっとケルゼン一筋で研究されてきたそうである。では、なぜ50年のときを経てしまったのか、は最大の謎という感じがするのは私だけだろうか。何だかんだあっても、90年代の中盤ぐらいに上梓されえなかったものだろうか。
2 そもそも想定外の企画だったらしい。
しかも、この翻訳は教授の悲願というわけではなく、最近になって、編集者に企画を持ち込まれたため、想定外に着手したのだという。この辺りも凡人の私には理解しがたい学者さんの世界である。本書は自分が心酔する学者の主著である。それを今の今まで翻訳しようと思わなかったというのは、予想外なことだ。ちなみに競合するような日本の学者はほぼいない。能力さえあれば普通だったら「俺がやってやる」と早々に考えると思うのだが、そういうものではないのだろうか。
3 一人の先達に没頭する人生
訳者は様々な業績がおありになるものの、本筋としては一途にケルゼン一筋である。半世紀の研究歴で、自分自身の法哲学の本はほとんど書いていない。ケルゼンの著作集をコツコツと訳出したりされている。学者生活を近代の学者一人に完全に投入しようという意気込みがすごい。他の学者の学説に浮気しようとか、自分の思想を前面に出そうとか、考えなかったのだろうか。東大教授をつとめた秀才でありながら、一人の先達と心中を決め込むところが、学者さんの特異なところといえまいか。私のような凡人だと、能力さえあったらもっと他のところにも手を出してしまいそうなものである。
4 純粋法学って何なのか。
しかも、それが誰もが聞いたことがあるカントやハイデガーのような「超ビッグネーム」なら、わからないでもない。しかし、ケルゼンである。法概念論に限っても他に、ハートやラートブルフなど何人か著名人はいる。しかも法哲学は政治哲学と守備範囲が大きく重なるということで、プラトンから始まりロールズやノージックなど、扱うに値する先人は数限りなく存在することになる。その中で、なぜケルゼンにこだわるのか。「純粋法学」それ自体が現在の通説であるというわけでもないと思われる。これも素人には理解し得ない境地である。
以上、内容については全然わからないが、
書誌の観点では非常に興味深い翻訳書である。
では、結局、私個人は何を望むかといえば、
1 横田喜三郎の翻訳した初版を岩波文庫にしてほしい。
手っ取り早く純粋法学・ケルゼンを知るためには、結局、それが一番なのではないだろうか。
2 純粋法学を、「総体的」かつ「相対的」に捉えた新たな体系書を望む。
もはや『純粋法学(第二版)』という一冊それ自体にインパクトはそれほどないのではないか。それら関連著作を集大成して、客観的に位置づけした法哲学の体系書が必要なのではないかと思う。
といったところである。
|
全体表示
[ リスト ]



