カンカンとガクガクの部屋

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雑記帳

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刑法において共犯を定める規定は、
基本的には次の4条しかない。(微罪と身分犯の特例を除く。)
 
 
(共同正犯)
 
第60条  
二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。
 
(教唆)
 
第61条  
1項 人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科する。
2項 教唆者を教唆した者についても、前項と同様とする。
 
(幇助)
 
第62条
1項 正犯を幇助した者は、従犯とする。
2項 従犯を教唆した者には、従犯の刑を科する。
 
(従犯減軽)
 
第63条
従犯の刑は、正犯の刑を減軽する。
 
 
 
ただ、これだと、「自分は行動しないが指導的な立場の黒幕」を
適切に罰することができないということで、
判例は「共謀共同正犯」という概念を使用し、
60条を適応してきたわけである。
 
 
しかし、条文にない以上、かなり無理を伴う解釈であるのは否めない。
そこで、60条ではなく、611項を次のように改めればいいのではないか。
 
 
第61条  
1項 共謀して、または人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科する。
 
 
共謀共同正犯を認めないと不都合な理由としては、
①「従犯(幇助犯)では、刑が軽くなってしまう」と、
②「教唆犯では、なんとなく罪が軽いように聞こえる」の
2点が重要であると思われるが、これで解消できる。
 
 
 
残る問題は、
③「結局、正犯ではない」と、
④「新しい共犯を作ると、濫用が心配だ」
がありそうだ。
 
 
しかし、③は専門家しかわからない観念的な違いであり、
「共謀犯」という名称さえ用いれば、正犯と同じ刑を科すのであるし、
一般人(犯罪被害者など)であれば気になることはほぼなくなるのではないか。
また、④は、すでに「そそのかす」,「やりやすくする」という
ごく簡単な行為が共犯として運用されていたのであるから、
そのバランスとして、「共謀する」ことを加えても別におかしいところはない。
 
 
したがって、私は、
61条に、教唆犯と並立して、共謀犯を創設すべきである。」
と強く思う。
 
 
なお、「犯罪を実行させる」ことが前提であるので、
激しい議論がある「共謀罪」とは、関係がない。
「共謀罪」とは“実行を問わない”処罰規定のことである。
 
 
 
 

 
 
「一神教と多神教」という概念について、
いろんな著書でいろいろ自説を述べる人を
最近続けて目にしてきたので、
ちょこっとだけ調べてみた。
 
 
さしあたり、次の記述がなるほどと納得いったので、
少しだけだが引用してみる。
 
ごく簡単で、短い説明である。
 
 
 最後に、神の数によって宗教を類別して論じることの問題に短くふれておこう。一神教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)においても崇拝の対象が必ずしも単一でないことは、カトリック教会のマリヤ崇拝や聖人崇拝,イスラム教の聖者(廟)信仰などをみれば明らかである。また、日本の宗教風土は多神教的といわれるが、神社に詣でる平均的な日本人は「神さま」に祈るのであって、通常、各神社に祀られる個々の祭神の名を唱えることはしない。したがって、これからの宗教史研究に求められることは、個々の宗教を一般類型にはめ込んで論じることではなく、歴史の検証を通して、まずはそれぞれの宗教が歴史と社会に果たした役割を冷静に見つめなおすことであろう(『宗教学事典』305頁,丸善,2010)。
 
 
 
 
多くの人が「そりゃそうだ」と感じる
至極もっともな意見ではないだろうか。
だが、この当たり前の考えを、
意図的にか無意識にか、
無視してかかる人があまりに多い。
 
 
もっとも、これもまた一つの見解にとどまるわけだが、
日本宗教学会の主要メンバーがまとめた事典であることから、
一定の説得力を持つといっていいだろう。
 
 
一神教の優位性(または多神教の優位性)を
これ見よがしに振り回す人は、
まず、ものごとを相対的に観察し、
実例を挙げて検証するという、この常識的な前提に
一度立ち戻る必要があるのではないか。
 
 
 
 
 
ノーベル文学賞:「莫言氏は体制側」と中国国内で批判も

 【北京・工藤哲、高密(中国山東省)隅俊之、ワシントン白戸圭一、台北・大谷麻由美】中国人作家、莫言(ばく・げん)氏(57)へのノーベル文学賞授賞決定について、中国国内では「体制内の人物で授賞に値しない」と批判の声が上がる一方、12日付の中国主要各紙は1面で大きく扱い称賛している。中国政府は表向きは歓迎の立場とみられるが、政治色を帯びる文学賞は中国の政治体制の批判につながりかねないだけに神経もとがらせているようだ。
 香港紙「明報」は、中国の知識人の間では「作家協会副主席の莫言氏への授賞は、体制内の核心人物に対するもので授賞に値しない」と批判の声も出ていると伝えた。中国国内では、10年にノーベル平和賞を受賞した民主活動家、劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏が国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を受けた際、莫言氏が「状況が分からないから評論したくない」とコメントを避けたことなどが取り上げられ、インターネット上で「結局は体制側」との批判も出ている。
 一方、北京の評論家、韓浩月氏は11日夜、中国版ツイッター「微博」で、莫言氏の受賞について評論を書いたところ、「編集部に全部没にされた。報道は許されても評論は許されない」と暴露。中国共産党中央宣伝部の指示があったことをにおわせ「憂慮している」と批判した。
 12日付の中国主要各紙は授賞について大きく報道した。国際情報紙「環球時報」は社説で「中国人は自然科学分野以外のノーベル賞に偏見を持っていたが、一つの転換点になる」と指摘した。
 一方、米国では、莫言氏の受賞はほとんど話題になっておらず、メディアは受賞の事実を淡々と伝えている。11日の米紙ワシントン・ポスト(電子版)は米国の文芸評論家の寄稿を掲載し、莫言氏の受賞について「今回は中国が堂々と祝うことができる初めてのノーベル賞だ」と指摘した。
 劉氏が平和賞を受賞した際、「政治囚」だったため、釈放を求める米政府と劉氏の授賞式出席を認めない中国政府の間で外交問題に発展し、米メディアの注目を集めたのとは対照的だ。
 台湾の著名な女性作家でもある龍応台・文化部長(文化相)は11日夜、地元ラジオ局の取材に「中国大陸の未来の指導者が、文学は普遍的な価値であると深く認識し、心の壁を取り払うきっかけとしてほしい」と述べ、中国の自由と民主化の推進に期待した。台湾の中央ラジオが報じた。
                
                      2012年10月12日   毎日新聞   
                            http://mainichi.jp/
        
 
 
 
 
興味がわいてきた、近いうちにぜひ作品を読んでみたい。
 
でもその前に、バルガス=リョサ(2010年受賞)の
『アンデスのリトゥーマ』も発売が控えているんだよなあ。
 
読むのが遅いので、読みたい本がすぐ渋滞する。
 
 
 

 
 

十七条憲法 試訳(2)

第九条
 
信は義の根本である。
何事にも信がなければならない。
善悪や成否も、すべて信のあるなしにかかっている。
臣下の間に信があるならば、何事も達成できる。
しかし、臣下に信がなければ、
万事ことごとく失敗することになる。


第十条
 
心の怒りを絶ち、怒りを表に出さないようにすること。
他人が自分と意見が異なることを怒ってはならない。
人それぞれに心があり、それぞれに思うところがある。
相手がこれと思っても自分はそうではないと思い、
自分がこれと思っても相手は違うと思う。
自分はいつも聖人で、相手はいつも愚かだというわけではない。
皆ともに凡人なのである。
ことの是非など誰がよく定められるだろうか。
お互いが賢くもあり愚かでもあることは、
耳輪には端がないようなものである。
したがって、相手が怒っていたら、
むしろ自分の過ちをおそれなさい。
自分一人これだと思っても、
衆議に従って行動するべきである。


第十一条
 
功績と過ちをよく考察して、それに見合う賞罰を行うこと。
近頃、褒賞が功績によらず、罰が罪によらないで与えられている。
公務を執行する高官は、賞罰を公明正大に行わなければならない。


第十二条
 
国司と国造は、独自に民から税をとってはならない。
国に二人の君主はなく、民にも二人の主はないのである。
国中のすべての民にとって、王だけが主である。
任命された官吏は、皆、王の臣下である。
公課と並行して、民から徴税をしてよいわけがないのである。


第十三条
 
様々な官職に任じられた者たちも、
みな同じように職務に精通すること。
病気や出張などで職務にいない場合もあるであろう。
しかし、政務をとれるときには、よく協調して、
以前より精通していたかのようにしなければならない。
それはあずかり知らないなどといって、
公務を滞らせてはならない。



第十四条
 
すべて官吏たちは、嫉妬の念を抱いてはならない。
自分が相手を妬めば、相手もまた自分を妬む。
嫉妬のわずらいには際限がない。
それゆえに、自分より知恵が勝れている人がいると喜ばず、
自分より才能が勝っていると思えば嫉妬する。
それでは、五百年経ってやっと賢者に会うようなことがあっても、
千年の間に一人の聖人の出現を期待することすら難しい。
聖人や賢者を得なくては、
どうやって国を治めることができるであろうか。


第十五条
 
私心をすてて公務に向かうのは、
臣たるものの道である。
およそ人に私心があるとき、恨みの心が起きる。
恨みがあれば必ず不和が生じる。
不和になれば私心で公務を妨げることになる。
恨みの心が起こってくれば、
制度や法律に違反することになる。
したがって、第一条で、上の者と下の者で
協調して論議せよと言ったのは、このためである。


第十六条
 
民を使役するには時期をよく考えよとは、
いにしえの良いならわしである。
したがって、冬の季節は暇があるので、
民を使役するとよい。
春から秋までは、農業と養蚕の季節である。
民を使役してはならない。
民が農業をしなければ何を食べていけばよいのか。
養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。


第十七条
 
もの事は独りで判断してはならない。
必ず皆でよく論議せよ。
小事は軽いことなので、
必ずしも皆で議論しなくてもよい。
ただ、重大な事柄を議論するときは、
判断を誤ることもあるかもしれない。
したがって、皆で検討すれば、
道理にかなう結論が得られるだろう。



十七条憲法 試訳(1)

 
「十七条の憲法」
 
試しに訳してみました。
ご参考までに。
原文(書き下し文)は
簡単に検索できるので
調べてみてください。

 
[ 十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう) ]

『日本書紀』、『先代旧事本紀』により
推古天皇12年(604年)に制定されたと
伝えられる17条からなる条文。
憲法十七条、十七条の憲法ともいう。
官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものである。
現代の国際的な共通用語となっている「憲法」とは異なる。
(国家組織の定めがなく、国民の権利義務の定めもない。
そもそも、日常の道徳にうったえかけるものなので、
法規範(行政法規)といえるかも定かではない。
 
 
 
 
 
 
第一条
 
和を貴いものとし、
争いを起こさないことを旨とすること。
人は党派をつくりたがり、
道理をわきまえたものは少ない。
だからこそ、君主や父親の言うことに従わず、
また、近隣ともめごとを起こす。
しかし上の者は協調を、
下の者は親睦の気持ちをもって議論をするなら、
おのずから道理にかない、
どのようなことも成就するものである。
 
 
第二条
 
あつく三宝を敬うこと。
三宝とは仏と法と僧である。
それは命ある者の最後のよりどころであり、
すべての国の究極の教えである。
どんな世の中、いかなる人でも、
この法を貴ばないことがあろうか。
人で極めて悪い者は少ない。
よく教えるならば従うものだ。
それには三宝に依拠しなければ、
何によって曲がったものを正せるだろうか。
 
 
第三条
 
詔勅を受けたならば、
必ず謹んでそれに従うこと。
君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。
天が地を覆い、地が天を乗せている。
そうして日々を正しく巡り行くことにより、
万物の気が通うのである。
地が天を覆おうなどとすれば、
秩序が破壊されるだけである。
このため、君主がいうことに臣下は従い、
上の行いに下はならうのである。
ゆえに、詔勅を受けたならば、
必ず謹んでそれに従わなければならない。
そうしなければ、やがて破滅するだろう。
 
 
第四条
 
閣僚および官吏たちは、礼を基本とすること。
民を治める基本は、必ず礼にある。
上が礼に適っていないときは下の秩序はみだれ、
下の者に礼がないときは、必ずや罪を犯すことになる。
したがって、臣下に礼が保たれているときは社会の秩序は乱れず、
庶民に礼があれば国家は自然と治まるものである。
 
 
第五条
 
饗応や財物への欲望をすて、
訴訟を公正に審査すること。
庶民の訴えは一日に千件もある。
一日でもそうなら年を重ねたらどうなるだろうか。
この頃、訴訟に携わる者たちは、
権益を得ることが常となり、
賄賂を見てからその申し立てを聞いている。
すなわち財力のある者の訴えは
石を水に投げ込むように容易く受け入れられるのに、
貧しい者の訴えは
水を石に投げ込むように容易には聞きいれてもらえない。
このため、貧しき民は頼れるところがないでいる。
これは臣下としての道にもとることである。
 
 
第六条

悪を懲らしめ善を勧めるのは、
古くからの良いならわしである。
そこで、人の善は隠すことなく、
悪を見たらば必ず正せ。
へつらい欺く者は、国家を覆す武器であり、
民を滅ぼす鋭い剣である。
また媚びへつらう者は、
上には好んで下の者の過ちをいいつけ、
下に会うと上の者の失態を誹謗するものである。
そのような者たちは君主に対し忠義がなく、
民に対する仁徳がない。
これは大乱のもとである。


第七条
 
人にはそれぞれの任務がある。
職務を行うにあたって乱れがあってはならない。
賢明な者が任官されるときは、すなわち称賛の声が起こり、
よこしまな者が任官すれば、災禍が頻発することになる。
世に、生まれながらに賢明なる者は少ない。
よく心がけることにより聖人になっていくものである。
事に大小はなく、適任の者を得られれば必ず治まり、
時代の流れの速さに関係なく、
賢者が出れば豊かな世の中になるのである。
これによって国家は永久となり、危うくならない。
したがって、いにしえの聖王は官職に適した人を求めることをし、
人がありきで官職を設けたりはしなかったのである。


第八条
 
すべて官吏たちは、
早くから出仕し、遅くなってから退出すること。
公務は休むひまもなくある。
終日かけてもやり尽すことは難しい。
したがって、遅く出仕したのでは急の用に間に合わないし、
早く退出したのでは必ず仕事をやり残すことになるのである。


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