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東と西、今と昔、神と人、あらゆるものを結ぶ心の宿場町があります。
◆ 伊勢参りや参勤交代の賑わいを今に伝える東海道の宿場町 鈴鹿山脈の東麓にある関宿は、古代三関のひとつ「伊勢鈴鹿関」が置かれた地であり、江戸時代には、東海道五十三次の47番目の宿場町として栄えた町です。 東の追分で伊勢別街道が、西の追分で大和街道がそれぞれ東海道から分岐していたため、伊勢参りや参勤交代などの交通の要衝となっていました。東海道のほとんどの宿場町が都市化などで旧態をとどめない中、関宿には東西の追分間約1.8キロメートルに江戸〜明治時代に建てられた200軒もの町屋が残され、東海道の宿場町としては唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 東の追分の大鳥居は伊勢神宮の一の鳥居で、20年に一度の神宮式年遷宮の折、内宮宇治橋南詰の鳥居が移築されます。伊勢参りの人々はこの鳥居をくぐって伊勢神宮へ向かい、東海道を急ぎ往来する人々はここから神宮を遥拝しました。旅人の目を楽しませる町屋の漆喰彫刻などの細部意匠をはじめ、町のあちこちにもてなしの心が今も息づいています。 そこには、東西の文化を結ぶ町、神の国の玄関口としての誇りが感じられます。 観光[ソースを編集]史跡。
歌川広重「東海道五十三次・亀山」 史跡・みどころ関宿までの史跡・みどころ
隣の宿
関宿(せきじゅく、せきしゅく)は、三重県亀山市にある江戸時代における東海道の宿場の呼称である。現在も、東西追分間の旧東海道沿いに、当時の宿場の古い町並みが残されている。国の「重要伝統的建造物群保存地区」および、旧建設省選定の「日本の道100選」のひとつ。
歌川広重「東海道五十三次・關」
概要古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存するなど、町並みがよく保存されていて、旧文化庁により選定された国の重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道100選(昭和61年)に選定されている[1][2]。
百五銀行 関支店 歴史宿場の名は、愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)とともに「日本三関」に数えられ、670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関」に由来する[1]。壬申の乱(672年)に大海人皇子(天武天皇)が、鈴鹿の関を閉ざしたことは有名である[1]。
現在に続く関宿の町並みは、天正年間(16世紀末)に伊勢国領主で戦国武将であった関盛信が、領内の道路を改修したことに始まり、慶長6年(1601年)に徳川家康が行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場となってから本格的に整備された[1]。東の追分で伊勢別街道を分岐し、西の追分で大和街道と分かれる立地条件から、旅人の通行も頻繁になり、江戸時代は宿場として大変賑わったといわれる[1]。
戦後、旧東海道の宿場の大半が旧態をとどめないなかで、関宿は江戸時代当時の宿場の賑わいを彷彿させる街並みが残されていたことから、町並み保存の機運が次第に高まり、1980年(昭和55年)2月に地元有志を中心に「町並み保存会」が結成され、同年6月には関町において「関町関宿伝統的建造物群保存条例」を制定した[1]。条例制定以降は、多くの町家を伝統的建造物として保存と修復がなされ、1984年(昭和59年)12月には、関宿の面積25ヘクタールにおよぶ地区を対象に、全国で20番目・三重県では初となる国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定された[1]。さらに、1986年(昭和61年)8月10日に歴史性と親愛性を基準に、「東海道の宿場町・関宿」として旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている[3]。
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伊勢亀山城
鎌倉時代 - 戦国時代]
伊勢亀山城は、1265年に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。
その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移され、1567年の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。
1583年には蒲生氏郷が城主となっている。1590年に、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。
江戸時代
江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城となった。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されている。
またこの時期の亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。
1636年、城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。
2019/1/5(土) 午前 11:21 [ 白フクロウの眼差し ]