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関町は鈴鹿山脈の東麓にあり、古代には越前の愛発【あらち】、美濃の不破【ふわ】とともに三関と いわれた伊勢鈴鹿の関が置かれていたところです。町名もこの鈴鹿の関に由来します。
伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇) が皇位を争った壬申【じんしん】の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによります。 延暦8年(789年)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御【ほうぎょ】 や政変などが起こるたびに関が固められました。鈴鹿関の位置や規模、当時の「関」の様子などははっきり とわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられています。
中世の関一帯は伊勢平治の流れを汲む関氏の所領で、旅人や近在の人々の信仰を集めた地蔵院には 門前町が形成され、この集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。 この関地蔵を中心に次第に宿場町が整備されていくのであり、現在見られるような町並みの基礎 が築かれたのは、天正11年(1583年)に関盛信が中町を町建てしたときにさかのぼると考えられています。
![]() 慶長6年(1601年)、徳川家康の宿駅制度化により、東海道に53の宿場が設けられました。現在の関町内には 品川から数えて47番目にあたる関宿と、48番目にあたる坂下宿の二つの宿場が整備されました。特に、 関宿は西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、これらの街道を往来する人々もあって、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として江戸時代を通じて繁栄しました。天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によると、関宿では戸数632戸・人口1,942人を、坂下宿では153戸・564人を数えました。 江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入しました。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。また、山車【やま】が曳き出される関宿の夏祭りも良く知られていました。狭い関宿を最盛期には16基もの山車がねり、「関の山」 という言葉まで生まれたほどでした。当時の賑わいが偲ばれます。
明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていましたが、明治23年の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受けます。町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためです。その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至るのです。
関宿は、旧東海道の宿場のほとんどが旧態をとどめない中にあって、唯一往時の町並みが残ることから国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その保存とともに、歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んでいるところです。 |
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伊勢亀山城
鎌倉時代 - 戦国時代]
伊勢亀山城は、1265年に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。
その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移され、1567年の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。
1583年には蒲生氏郷が城主となっている。1590年に、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。
江戸時代
江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城となった。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されている。
またこの時期の亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。
1636年、城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。
2019/1/5(土) 午前 11:23 [ 綺麗なお金・土・水・空気・領土 ]