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新聞連載中〜〜76回


因幡の国の集落を
隔週連載でスケッチインタビューしています。

転載元転載元: 福田典高




ラピタ人

   
ラピタ人の広がったと考えられる範囲
ラピタ人: Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族

概要

ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)

 1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった[1]ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language[2]) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた[3][1]。この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。




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歴史

ラピタ土器の破片。ソロモン諸島のネヌンボ遺跡 (Nenumbo site) でオークランド大学のロジャー・グリーン (Roger C. Green) らによって1970年代に発掘されたもの。破片幅は約8cmで、紀元前1000年ごろのものと見られている[4]。 ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。
ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。バヌアツニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる。メラネシアパプアニューギニアウンボイ島 (en) でも見つかっているが、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けた。

またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジーサモアトンガの一帯で作られはじめた。トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島ソシエテ諸島、さらにはハワイイースター島ニュージーランドへと伝わった。しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる。

遺物

土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものもある。多くは歯型の文様が付けられたが、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられている。ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬 (adze) などの人工遺物や、黒曜石チャートなどで作られた石器も見つかっている。



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経済活動

ブタイヌニワトリなどの牧畜が行われていた。またイモ果実を収穫するための農業も行われており、主にヤムイモタロイモココナツバナナパンノキなどが栽培されていた。これに加えて漁業が行われ、黒曜石や石の鍬、その原料となる各種の石や貝殻などとの交換による遠距離交易が行われていた。


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風習

バヌアツエファテ島テオウマ遺跡 (en) で2003年に見つかった古墳では、36体の遺体が25の墳墓または甕棺に埋葬されていた。遺体はすべて頭部を欠いており、これは一度埋葬した後に、頭部だけを取り去り巻き貝で作った指輪と置き換えていたためであった。その頭部は別に埋葬されており、埋葬されている老人の胸の上に3つの頭部が並べられていた墓が見つかっている。また見つかった甕棺の一つには、4羽の鳥が中をのぞき込む造形が見られた。炭素年代測定により、墳墓の中の貝殻はおよそ紀元前1000年ごろのものとされている[5]

植民

ポリネシアの西部では、人々の住む村落は大きな島の海岸沿い、あるいは小さな島に作られた。これは、ニューギニアの海岸などではすでに住んでいた別の民族との衝突を避けるため、あるいはラピタ人にとって致命的な病気であったマラリアを媒介する蚊をさけるためであったと考えられている。礁湖 (ラグーン) の上に作られた高床式の住居も見つかっている。ニューブリテン島では内陸部、黒曜石の産地の近くに植民したのが分かっている。ポリネシア東部の島々では内陸部に、しばしば海岸から距離のある場所に入植していた。
オークランド大学のジャック・ゴルソン (Jack Golson) とサモア人一家、サモアウポル島バイレレ村の発掘現場にて。1957年。

ラピタ土器はビスマルク諸島からトンガにかけて見つかっているが、その東端はサモアウポル島ムリファヌア村 (en) である。ここでは4288個の土器片と2個の石の鍬が見つかっている。炭素年代測定により紀元前3000年のものと見られている[6]。 牧畜も、土器同様にオセアニアの各地に広まっていった。ラピタ人、家畜、その移動についてきた他の生物 (おそらくナンヨウネズミなど) は、外来種として、結果的に多くの移住先で飛べない鳥を始めとする固有種を絶滅させることになった。





言語

ラピタ人の言語は、オーストロネシア語族のオセアニア言語の元となったオセアニア祖語 (Proto-Oceanic) だったであろうと考えられている。しかしこれまでに見つかっている考古学資料は言語に関するものが少なく、言語自体に関する資料は乏しい。


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起源

ラピタ人のルーツは未解明の部分が多いが、台湾の土器との関連性が考えられている。わずかに発見されている人骨から、人種的には現在のポリネシア人に似た大柄な人々だったらしいと言われている。
その祖先はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族であり、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島ニューギニア島メラネシアに到達した。ここでオーストラロイドのパプア先住民と混血し、ラピタ人の始祖となる。彼らは進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。
5000〜6000年前の台湾または中国南部のオーストロネシア人 (en)は、新石器時代に人口増加により移住を余儀なくされ、東南アジア (台湾) から移動した (「ポリネシア特急」とも呼ばれる) のではないか、と考えられている。台湾の赤い細長い陶板に似た特徴がポリネシアの甕棺にも見つかっており、言語学的にも対応が見つかっている[7]ことが、それを裏付けているとする[5]
一部の研究者は、ラピタ人の移住は「トリプル I」に特徴づけられる、としている。それは
  • intrusion - 新しい土地への侵入
  • innovation - 新しい技術の獲得 (アウトリガーカヌーなど)
  • integration - すでにいる民族との統合
という3つの過程があることである、としている[8]
現在はインドネシアマレーシアではラピタ人に関するものは見つかっておらず、そのためユーラシア大陸の民族とラピタ人を結びつける根拠はない。またそれとは別に、ビスマルク諸島では30,000年から35,000年前に人が住んでいたことから、これがラピタ人のルーツである、とする意見もある。それによると、ポリネシア西部でのラピタ人の広まりは、黒曜石の交易によるものである、とする。

転載元転載元: 海洋文化交流/貿易振興



トロッコ嵯峨駅   

トロッコ嵯峨駅 所在地所属事業者 所属路線 キロ程電報略号 駅構造ホーム 開業年月日 乗換
駅舎
駅舎
とろっこさが
Torokko Saga
京都市右京区嵯峨天龍寺車道町
嵯峨野観光鉄道
嵯峨野観光線
0.0km(当駅起点)
トロサカ
地上駅
1面1線
1991年(平成3年)4月27日
西日本旅客鉄道山陰本線嵯峨嵐山駅
京福電気鉄道嵐山本線嵐電嵯峨駅
テンプレートを表示
トロッコ嵯峨駅(トロッコさがえき)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺車道町にある、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線。電報略号は「トロサカ」。

概要

嵯峨野観光線における嵯峨野側の起点駅。JRの駅と隣接しており、JRとトロッコの駅とを乗り継ぐことができる。
駅舎と並んで、19世紀の科学技術や芸術を展示している「19世紀ホール」があり、D51形などの蒸気機関車などが展示されている。駅舎内と「19世紀ホール」はつながっており、嵯峨野観光線の営業時に無料で自由に内部が見学できる。

接続路線

近隣には以下の路線の駅があり、当駅から乗り換えが可能。

歴史

開業日の旧駅舎の様子

駅構造

単式ホーム1面1線の地上駅。
嵯峨嵐山駅とは独立した駅舎を持っており、乗り換えの際も一旦改札を出る必要があるが、当駅とトロッコ嵐山駅の間は山陰本線と線路を共用する都合上、運転取り扱い上では嵯峨嵐山駅と同一駅扱いとされ、同駅の「5番線」として扱われている。

駅周辺

嵯峨野・嵐山の名所旧跡や観光施設が近い。

隣の駅

嵯峨野観光鉄道
嵯峨野観光線
トロッコ嵯峨駅 - トロッコ嵐山駅


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トロッコ列車 | 嵯峨野観光鉄道

www.sagano-kanko.co.jp
京都嵯峨野、保津峡の四季を楽しむトロッコ列車25分の至福の旅、嵯峨野観光鉄道トップページです。 ... 企業情報 会社概要 安全への取り組み 国民保護業務計画 被害者等支援計画 安全報告書 お身体の不自由なお客様へ

トロッコ列車空席情報 | 嵯峨野観光鉄道

嵯峨野観光鉄道 空席状況がご確認いただけます。 ... 前売乗車券が満席の場合でも当日乗車券を乗車日当日に当社の各駅(トロッコ保津峡駅は除く)で販売いたしますので、ご乗車いただくことが可能です(当日乗車券の販売数には限りが ...

嵐山嵯峨野 トロッコ列車へ行く前に!見どころをチェック ...

嵐山嵯峨野 トロッコ列車(京都市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(602件)、写真(754枚)、地図をチェック!嵐山嵯峨野 トロッコ列車は京都市で51位(1,127件中)の …

ブルーモスク







大きなドームと鉛筆型の6本のミレーナをもつ、トルコを代表する、

イスラム寺院スルタンアフメット・ジャミィは、この地域名にもなっているとおりの、旧市街の観光の中心です

その壮大な姿はイスタンブールの象徴でもあります、トルコのジャミィは丸天井の直径27mの大ドームと、

4つの副ドーム、30の小ドームと、6本の高さ43mの尖塔(ミレーナ)に特徴があります

ガランとした広いフロアの上を見上げると、高い丸天井が独特の雰囲気を作り出しています

内壁を飾る、2万枚以上のイズニック・タイルは青を主体とした珍しいものです、絨毯も見事です

「ブルー・モスク」の愛称は青のタイルから広く親しまれているようです。

転載元転載元: ナルちゃんの旅♪

ギョレメ野外博物館






トルコのカッパドキアのギョレメ谷には30以上の岩窟教会があり、野外博物館として観光できます

地上の教会と同じ十字平面の教会や丸天井のものも多いです。

山に見られる岩窟は殆どが教会、或いは、テーブルのある会食の出来るような部屋です。

それぞれの岩窟教会には壁画や洞窟の特徴を語るようなトルコ語の呼び名がつけられて

保存状態の良いいくつかの教会でフレスコ画が見られます。残念ながら内部の写真はありません。

フレスコ画は  http://blogs.yahoo.co.jp/naruskywave650/trackback/1479310/44883855

「イヴァノヴォの岩窟教会」を参考にしてね

転載元転載元: ナルちゃんの旅♪

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