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博愛記念碑、1873年ドイツ商船ロベルトン号が座礁し、宮古島の人たちが救助して8人のドイツ人が無事帰国できたことにドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が感動し、ここに島民への感謝をこめて建立したとのこと。かのビスマルクを起用しドイツ帝国繁栄の基盤を築いた皇帝の心を動かした沖縄の「ゆいまーる」精神。日本の誇りです。
miyakoshinpo.com/news.cgi?no=15147&continue=on - キャッシュ
2016年7月9日 - 博愛の日」 とは、 同年7月12日、 ドイツ商船ロベルトン号が宮国沖で遭難し、 乗組員8 人を地元住民が救出して手厚く介抱。 人類愛に燃えた祖先の偉業を語り継ぎ、 国際 社会に生きる豊かな人間性の育成をめざし、 救出した7月12日を 「博愛 ...
yannaki.jp/yamakawa.html - キャッシュ
明治6年 国旗を琉球に賜い、久米島外四島に掲揚させる。7月ドイツ商船ロベルトン号 宮古沖で遭難する。 明治7年 琉球藩は内務省に改め属する。 明治7年 英国軍艦来航、 藩王に金時計を贈り、前年難民救護の礼を謝す。 前年(明治6年) ...
rekibun.jp/201310tyousa.html - キャッシュ
ここで関心を持っているのは二つの御嶽の寄進された香炉(年号)とウガミグヮ( ミヤギムイ)にある大きな石燈籠である。奉寄進の香炉と ... 明治6年 国旗を琉球に賜い 、久米島外四島に掲揚させる。7月ドイツ商船ロベルトン号宮古沖で遭難する。 明治7年 琉球藩 ...

miyakojimabunkazai.jp/bunkazaiinfo591/ - キャッシュ
漲水港の近くの市街地に建つ記念碑は、ドイツ皇帝ウイルヘルムⅠ世の命によって 1876(明治9)年3月20日に建立、22日除幕式が挙行された。1873(明治6)年7月、 宮古島の南海岸・宮国沖合に座礁したドイツ商船ロベルトソン号の乗組員を宮古の人.
www.okinawastory.jp > TOP > 観光スポット - キャッシュ
1873年、ドイツの商船ロベルトソン号が台風に遭い、宮古島宮国沖で座礁しました。 その際、島人が船員を救助し、34日間にもわたって手厚くもてなしたうえ、無事ドイツへ 帰国させました。ドイツ皇帝博愛記念碑は、この島人たちの博愛の精神を称え、ドイツ 皇帝 ...
4travel.jp > ... > 宮古島 旅行 > 宮古島 観光 > 宮古島 名所・史跡 - キャッシュ
ドイツ皇帝博愛記念碑を実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミ サイト フォートラベルでドイツ皇帝博愛記念碑や他の観光施設のクチコミをチェック! ドイツ皇帝博愛記念碑は宮古島で30位の名所・史跡です。
www.jalan.net/kankou/spt_47206aj2200122842/ - キャッシュ
ドイツ皇帝博愛記念碑は遭難したドイツ船の救助活動に当った島民に感謝し、ドイツ 皇帝から送られた大理石の碑。
www.goyah.net > 沖縄 > 沖縄観光情報 > 宮古 > 史跡・戦跡 - キャッシュ
料金, 見学無料. アクセス, 宮古島市役所の交差点を県道234号線から平良港へと坂を 下ると途中、左手に看板があります。その一通の道の先にあります。 駐車場, なし. 備考, 宮国村の沖合で座礁したドイツ商船の乗組員を救出した勇敢な島民をたたえる碑です ...
atalas.ti-da.net > ... > んなま to んきゃーん - キャッシュ
予想外の延長戦へ突入するなどして、「ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念 の物語」のシリーズは、通算で10回目を数えましたが、いよいよ今回が大トリ。本家本 元の博愛記念碑のご紹介です。云わずと知れた、ドイツ帝国初代 ...
w1.nirai.ne.jp/shiruko/okinawa/rekishi/doitumura.html - キャッシュ
この事実を知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルム1世は、自分たちの命も危うい状況で 乗組員を救助してくれた宮古島の人々の勇気ある行動に感動し、1876年3月、軍艦 チクローグ号を派遣し、 上野村に記念碑を建てさせたといいます。記念碑のサイズは碑 面 ...
m-repo.lib.meiji.ac.jp/.../nogakubuhokoku_64_4_129....
要 旨 本総説は,沖縄県宮古島に1876年に建てられた所謂「ドイツ皇帝博愛記念碑」 に関する様々な史実. を,宮古島郷土史やドイツ植民地史などの分野における最新の 研究成果も取り入れ,複眼的に考察するもので. ある。エドゥアルト・ヘルンスハイム船長  ...
ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/.../20-84.pdf
宮古島の人々と 「Fイツ皇帝博愛記念碑」. 一 Fイツとの文化交流の視点からー. 与真ー 宮古島の風景. ー- はじめに. 「どうです。 ひどい所でしょう。 サトウキビ以外何. もないん です。 赤土で, バイナップルもだめだったん. ですよ。」 宮古空港から乗車したタクシー ...
www.tripadvisor.jp > ... > 沖縄県 > 宮古島 > 宮古島市 観光 - キャッシュ
ドイツ皇帝博愛記念碑(宮古島市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(6件)、写真(6 枚)、地図をチェック!ドイツ皇帝博愛記念碑は宮古島市で65位(111件中)の観光名所 です。



 
<a href="http://ord.yahoo.co.jp/o/image/_ylt=A2RinFJWQpRX.j4Avh2U3uV7/SIG=187jdm2sd/EXP=1469420502/

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転載元転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

琉球弧



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琉球弧(リュウキュウコ)とは - コトバンク

デジタル大辞泉 - 琉球弧の用語解説 - 九州の南から台湾へ弧状に連なる島列。南西諸島弧。 MENU コトバンク コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。 琉球弧 (読み)リュウキュウコ デジタル大辞泉 の解説 りゅうきゅう‐こ ...




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琉球諸島 - Wikipedia



琉球諸島(りゅうきゅうしょとう、琉球語:Ruucuu-reptoo[1])は、南西諸島の中の琉球国に属する部分の総称。これを現在の沖縄県と同範囲にするかどうかは諸説あり、奄美群島を含めたり、大東諸島を含めない場合もある。

琉球諸島に含まれうる諸島

大東諸島については、サンフランシスコ平和条約第三条で「北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」と規定され、また、沖縄返還に関する日米間の条約の名称が「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」とされるなど、琉球諸島に含まない場合がある。
尖閣諸島については、先島諸島に含めない場合と含める場合とが有り、琉球諸島にも含めない場合[2]と含める場合[3]とが有る。

琉球列島・琉球弧

同様な用語として琉球列島琉球弧があり、この定義は分野や対象、研究者によっても異なる。
例えば、『広辞苑 第6版』[4]では琉球弧を大隅諸島から台湾までとしており、『地理用語集』[5]では琉球列島と南西諸島を同義としている。
生物学では、生物地理の観点から九州から台湾間の弧状列島、つまり大隅諸島から八重山諸島まで島々を琉球列島と定義し、この場合も大東諸島及び尖閣諸島を含めない[6]。一方植物相などでは、大東諸島及び尖閣諸島も含める場合もある[7][8]。大隅諸島とトカラ列島の間に分布境界線が設置されており、これを渡瀬線[9]という。

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琉球弧の画像

bing.com/images

JAL国内ツアー - 宮沢和史プロデュース「琉球弧の唄と自然を ...

www.jal.co.jp/domtour/kyu/tokunoshimanotabi
九州の南から台湾にかけて、 弧を描くように連なる島々。 青い海、豊かな緑、咲き乱れる花々、 多様性のある生き物… 美しい自然とは対照的に、 琉球弧の島々は時に悲しい歴史も秘めています。 島の唄はエンターテインメントで ...



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琉球弧研究支援(本学学生対象) | 沖縄大学

www.okinawa-u.ac.jp/chiken/ryukyu-study
琉球弧研究支援(本学学生対象) 沖縄大学では「地域に根ざす大学」を理念に掲げています。地域研究所ではその実践として学生が実際に現地に足を運び、フィールドワークを通して学ぶことを奨励する「琉球弧研究支援」プログラム ...

木原盛夫写真展「琉球弧 万華鏡」||ミュゼふくおかカメラ館 ...

www.camerakan.com/exhibition/...
木原盛夫写真展(高岡市福岡町出身) 琉球弧 万華鏡〜自然・祈り・芸能・基地…すべては日常にある〜 【同時開催】「しまねこ」「古の雅 いにしえのみやび」 リゾートだけでなく、基地だけでもなく。翻弄された歴史から生まれた ...

ASCD-2013 唄綵(うたづな)ー琉球弧を往還する謡たち / 大工 ...

www.offnote.org/SHOP/ASCD-2013.html
花綵の謡と唄の記憶を辿って。琉球弧の島々を往還して運ばれた謡と唄の奇蹟的邂逅。八重山諸島〜沖縄本島に伝わる異名同曲を集めて繋ぐ。現役最高唄者四人、夢の共演による画期的南島歌謡集。


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sanadada.com/2210/ - キャッシュ
真田幸村. 知覧や開聞岳・指宿の辺りは2回しか訪問したことがありませんし、 もちろん、こんなところに真田幸村とされるものがあることも知りませんでした。 ここの集落は、その名も「雪丸」(ゆきまる)です。 知覧茶の栽培が盛んで、雪も滅多に降ら ...



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www.city.minamikyushu.lg.jp/kankou/.../011.html - キャッシュ
所在地. 南九州市頴娃町牧之内(雪丸地区). その他. 駐車場から400mほど山道を登る必要があります。



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historivia.com > Home > 真田幸村 - キャッシュ
大坂の陣で最も勇猛果敢であった武将といえば、まず名前が挙がるのが真田信繁こと真田幸村だと思います。徳川方を何度も苦しめ、追いつめた彼の戦い ... の府県に供養塔や供養がつくられています。 出典:鹿児島の真田幸村に行ってきました〜 !



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washimo-web.jp/Trip/Denyukimura/denyukimura.htm - キャッシュ
私有林の中にひっそり佇む『真田幸村』. 薩摩半島の南端部の 頴娃(えい)町と知覧町、川辺町は合併して南九州市となり、 日本一のお茶生産高の市町村となりました。 頴娃の風景のシンボルはお茶畑と遠望の開聞岳. その頴娃に、



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kagoshimayokamon.com/2016/11/03/sanadayukimura/ - キャッシュ
大河ドラマ「真田丸」や映画「真田十勇士」で、脚光を浴びている真田幸村。そのゆかりの地が頴娃にあるということで行ってみた。 概要 真田幸村及び、戦国の世の終結となった最期の闘い、大阪夏の陣での活躍は、武.



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nezuminn.blog22.fc2.com/blog-entry-29.html - キャッシュ
最終目的地の説明をしますと戦国武将の一人、大阪夏の陣において徳川方から『日本一の兵』とも賞賛された真田幸村信繁の『』・真田幸村を訪ねるわけです。 実はこの真田幸村・・・上記に『』と書いたとおり日本中に真田幸村の ...




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4travel.jp > ホーム > 国内 > 九州地方 > 鹿児島県 > 鹿児島市 > 鹿児島市 旅行記 - キャッシュ
鹿児島の焼酎蔵と美味いもの巡りをしました。鹿児島の南まで行ったついでに、雪丸という場所に伝わる真田幸村のおまで足を延ばして来ました。』鹿児島市(鹿児島県) 旅行についてCharlielongさんの旅行記です。




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blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/15833298.html - キャッシュ
・豊臣秀頼の 鹿児島市の谷山という地区に豊臣秀頼のと伝えられる宝塔があります。 この宝塔は、新住居表示 ... ①秀頼はひそかに大阪城を抜け出して、真田 幸村などに守られて、ここ、薩摩の谷山に逃れてきたこと。 このことは、上田 ...



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blog.goo.ne.jp/.../fac30192ab8b488eee9ab9412aa51cb... - キャッシュ
2018年7月20日 - 南九州市頴娃(えい)町雪丸に、真田幸村と伝わるものがあります。雪丸集落に案内板があるので、これに従って行きます。駐車場から茶畑と開聞岳を望む。はこの後ろです。駐車場の横に水車があり、蛇口をひねって水を出すと回ります ...



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ei.kashoren.or.jp/files/ei/yukimaru/album01.html - キャッシュ
歴史上の武将ランキングで常に上位に人るだろう、その一人に真田幸村がいる。大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩、というところで武運が尽き安井神社(大阪市天王寺区)の境内で討取られてしまった。しかし、夏の陣後、大阪ではとあるわらべ唄が流行る。




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転載元転載元: 観光立国・観光産業振興・地方創生

沖縄県の歴史

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沖縄県の歴史

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復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。

琉球と沖縄の名称

琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。

 「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求」(607年大業3年)と翌年の記事)が初出で、その後、「流鬼」(『新唐書』)、「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは時代以降である[1]。明以前の「琉球」が現在の沖縄県周辺を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

 「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本の文献として、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)(淡海三船著)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。
 「沖縄」という漢字は日本語的な当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。この「沖縄」という名称が琉球処分後、日本の領土であることを示すため、「琉球」から沖縄に呼称が改められ、沖縄県として県名に採用され、今日では一般化している。[2]

 この間、明との交易が始まった14世紀以降には、琉球王国は自国の国号として「琉球国」(琉球國)を用い、琉球処分により、琉球藩、ついで沖縄県が設置されたが、沖縄県設置後においても地名としては、日本の旧国名(令制国名)として琉球国と呼ばれたりしたが、やがて県名に変って行った。

 「琉球」は中国が名付けた他称で、「沖縄」は本島の住民が周辺の島々や宮古、八重山に対する本島を指すことが語源で、沖縄固有の言葉に基づく名称である。[3]

 なお14世紀以後中国では沖縄本島を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称したりしていたことがあるため、両者が史書等で混同されることも多かった。

先史時代


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 沖縄県には本土のような縄文時代弥生時代のような区分は行わない。先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。





旧石器時代

  沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは不明だが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。
  また、1967年具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8000年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島伊江島宮古島石垣島からも見つかっている。



  長らく、県内からは確実な「旧石器」の報告例はなかったが、南城市サキタリ洞遺跡で1万2千年前の石器と人骨が発見されたことが2012年に報告された。このほかにも、一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。
 北辺の鹿児島県奄美群島からは細石器がみつかっている。また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが異食症によって骨を噛んでできたものとする説が有力である。

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 港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2000年間の遺跡はほとんど発見されておらず、長らく空白期とされてきたが、近年では上記のようにサキタリ洞などでこの間の空白を埋める人骨や石器が発見されつつある。

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沖縄貝塚文化

 貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられる。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる。
 後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期である。
 また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。また、奄美地方では螺鈿細工の原料となるヤコウ貝の集積地が存在し唐代貨幣(開元通寶)が発見される事から九州地方の商人の活動が推定されている。 

 縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島宮古諸島八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。
 これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになると徳之島産のカムイヤキや長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。

 古代史では、『続日本紀』の記録として、714年和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年天平勝宝5年)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。
 これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。これらの古代史料から、7世紀から8世紀にかけての南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。

古琉球

 沖縄県における農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」と呼ぶ。

神代

 琉球王国正史中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。
 『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[4]
 なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[5]するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

 また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄本島を支配したが、およそ12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。
 しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

 宮古島にも別系統の創造神話がある。詳しくは宮古島#神話の項を参照。

古代

  『日本書紀』では616年推古天皇24年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、629年舒明天皇元年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載や、677年(天武天皇6年)に多禰島人を饗したとか、679年(天武天皇8年)に朝廷から使を多禰島に遣わしたという記事などが見られる[6]
  また、682年(天武天皇11年)には、朝廷から多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれに禄を賜るという記事があり、掖玖(ヤク)を、初めて、特定の屋久島をさすような言葉として並列し区別するような記載がなされたが、それ以前は、古代日本ではこの地方の交易品である「ヤコウ貝」のことを「ヤク貝」とよんでいるので、7世紀末以前までは「ヤク」とは、必ずしも特定の島をさすものではなく、九州以南の地域を指す言葉として用いていたようである。

  『続日本紀』には、698年(文武天皇2年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士南島(なんとう)(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。
 
  これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。715年(元明天皇和銅8年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも720年(元正天皇養老4年)に南島人232人に位を授け、また727年(聖武天皇神亀4年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある[6]

 これらのことから、九州以南の島々をこう呼んでいたとともに、これら現在の日本の南西諸島に属する島々が朝廷に貢献していたことを示している。

中世

グスク時代

グスク跡(世界遺産

 12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

 この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天英祖といった王朝初期の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本から平仮名が導入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流もあり、これらが融合してその後の琉球文化の基となった。琉球の信仰ノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。
 1291年元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、元軍を英祖王が撃退したという話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想である[7]

三山時代

三山時代の勢力図

 14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の朝に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。

 三山の中で、南山の佐敷按司で

転載元転載元: 海洋文化交流/貿易振興

港川人&沖縄県立博物館



港川人

   
港川人の復元模型。国立科学博物館の展示[1]。模型制作時は港川人は縄文人の祖先と思われていたため、日本人に似せて模型が作成されたが、後年、最新機器を使った人骨再調査によりこの模型とは異なり、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い復元図が発表された [2]

 港川人(みなとがわじん、Minatogawa people)は、約20000〜22000年前に日本沖縄県に存在していたとされている人類
港川人(港川1号)の化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。

 1967年[2]から1970年[5]、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。この人骨は、全身骨格の形で残っている日本の人骨の中で最も古いものである[3]

 身長は男性で約153〜155cm[6] 、女性で約144cm[要出典]であった。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。

 かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた[7]が、2009年の研究で、港川人を縄文人の祖先とする考えに疑問を投げかけるような分析結果が出ている。港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説である。 国立科学博物館の海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性がある。つまり、港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来したことになる。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかと述べられている[2][5]

 沖縄県立博物館・美術館には「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の1つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
2014年には、港川と近距離の沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で少なくとも9000年以上前の人骨が発掘され、調査が進められている[3]

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港川(みなとがわ)採石場跡にある旧石器時代の遺跡。1967年〜1972年にかけて、大山盛保氏によって港川石のフィシャー(石灰岩)内から約1万8000年前のものと推定される化石人骨が発見され、「港川人」と名付けられました。発掘された化石の骨格から、港川人は発達した筋肉を持ち、背の低いがっしりとした体格であったことがわかります。




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沖縄県立博物館・美術館交通・時間・料金

1 ご案内

主な交通
沖縄モノレール・バス・タクシー
路線バス
おもろまち駅前下車(琉球バス、沖縄バス、那覇交通)
バス
那覇空港発 99番線 おもろもまち3丁目バス停下車 徒歩5分
那覇空港発 120番線 上之屋バス停下車 徒歩10分
市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車  徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車  徒歩3分
沖縄都市モノレール
ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
中北部から
空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
南部から
バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
空港から
沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分



常設展(総合展示)

 常設展は、総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる−豊かさ、美しさ、平和を求めて−」としました。

総合展示

 常設展へのアプローチでは、イノー(ラグーン)に広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験することができます。そして正面のサークルホールでは、琉球列島の成り立ちと生物の進化をテーマとした映像とともに、1万8千年前の原始の沖縄に暮らした港川人とその時代の動物相の再現模型が展開します。
  これに続く総合展示では、「海で結ばれた人々」から「沖縄の今、そして未来へ」まで各テーマに沿って、沖縄の豊かな自然と海からの恵み、そしてそこにくらした先人たちの歴史・文化をたどっていきます。


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 また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。

プロローグ ニライカナイの彼方から

 常設展へのアプローチです。足下にサンゴ礁を見ながら、沖縄へ上陸するイメージを演出しています。

1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示

 「化石の宝庫・沖縄」から発見された、さまざまな化石を展示しています。クジラやアンモナイトなど、原始の海にくらした生き物をはじめ、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」や、その頃に生きていたリュウキュウジカ、ヤンバルクイナなどの化石が、ステージ上に展開します。また、正面のスクリーンでは、古生代から現在に至るまでの琉球列島の地史を映像で概観し、沖縄の自然・歴史・文化の旅へと誘います。

       
古我地原貝塚模型
 うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に、小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。

2 貝塚のムラから琉球王国へ

 
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   グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史がはじまります。


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概要

 江戸上りは、薩摩琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。
なお、1873年明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。

旅程・道中

天保3年(1832年)の琉球使節

 六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1〜2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。

 その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって両者の権威高揚に利用された。

文化交流

 使節には、琉球音楽を演奏したり琉球舞踊を踊るための要員も含まれており(御座楽の項を参照)、特に路次楽は江戸上りのルート上にある地域の農村芸能にも影響を与え、また将軍や幕閣の前でも披露された。その他、随行員には和歌・茶道をはじめとする諸芸能に通じている者も派遣されており、これらの人的交流を通して中国と日本の文化が渾然一体となった琉球独自の文化が形作られていった。

江戸上り18回の詳細

  • 第1回の江戸上りでは、実際は京都に滞在し、江戸下向はなかった。
  • 第1回・第7回・第8回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された(下表参照)。
  •  第11回の慶賀使の薩摩藩側の引率者は平田靱負
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3 王国の繁栄

 琉球王国は独自の国家として成立しましたが、国内権力基盤の不安定さによって、第一尚氏から第二尚氏へ王統の交代が起こりました。この時代、中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球は、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行います。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれるさまを謳った旧首里城正殿鐘の銘文は、往事を偲ぶ貴重な資料です。ここでは、東アジア有数の貿易国家として繁栄したあと、より強固な国家体制がつくられた琉球王国の時代を紹介します。

4 薩摩の琉球支配と王国

 1609年、薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれましたが、中国との関係は引き続き維持されました。羽地朝秀、蔡温など政治家の強力なリーダシップによって、王国の経営が行われ、近世文化が創造されていきます。
  またこの時代、貝摺奉行所などによって優秀な工芸品が多くつくられるとともに、「中山世鑑」、「球陽」などの歴史資料が数多く著されました。


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 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

 最盛期には奄美群島沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国海禁日本鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[1]との深い結び付きが知られる。 

 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


5 王国の衰亡

 中国・日本という両大国との関係を維持しながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営は行き詰まりが顕著となりました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。


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転載元転載元: 海洋文化交流/貿易振興

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