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鳥居龍蔵 - Wikipedia

鳥居龍蔵

   
鳥居龍蔵(1952年)

鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日明治3年4月4日) - 1953年昭和28年)1月14日)は、日本の人類学者(『ある老学徒の手記』)、考古学者、民族学者、民俗学者。

人物

鳥居龍蔵生誕地記念碑
1870年、現在の徳島県徳島市東船場町で、煙草問屋の次男として生まれる。実家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた[1]

1876年明治9年)、小学校に入学。学校ぎらいで入学当初は逃げ回ってばかりだったという。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている[1]

晩年の自伝「ある老学徒の手記」には「尋常小学校を中途で退学」と記されていたため、多くの資料でも同様の記載がなされていたが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の所蔵資料から新町小学校尋常小学下等科の卒業証書が発見されており記憶に錯誤があったものとみられている[2]。また、上智大学文学部長だった1931年の日付が入った鳥居の履歴書も発見されており「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている[2]

中学校の教師の教えを受けながら[1]、独学で人類学を学ぶ。『人類学雑誌』の購読者となったことが縁で東京帝国大学の人類学教室と関係を持ち[1]1894年(明治27年)には標本整理係として坪井正五郎の人類学教室に入り、12月に同門の伊能嘉矩と週1回行われる人類学講習会を催す。東京遊学を言い出した鳥居に両親はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった[1]

1895年(明治28年)の遼東半島の調査を皮切りに、台湾中国西南部・シベリア千島列島沖縄など東アジア各地を調査した。中でも満州蒙古の調査は、鳥居と彼の家族のライフワークとも言え、たびたび家族を同伴して訪れている。妻のきみ子は現地で鳥居の助手を務めた。


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フィールドワーク

鳥居龍蔵のフイールド・ワークというと、海外での研究が著名だが、実際にはほとんどが日本国内各地での活動である。十代から、鳥居は徳島をはじめ、四国各地、後、東京帝大在職中も、日本各地のフイールド・ワークを行い、その度に展示会・講演会を開催、人類学・考古学の普及に努めた[3]

「(鳥居龍蔵の)アジアの大陸を歩いた旅程は、恐らく幾万キロに及んだであろう」と言われる[4]。「現在のような飛行機の便はなく、船・車・馬を利用し、又徒歩であった。しかも丹念に学問的観察をなし、その成果を発表した」「彼の足跡は当時、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及んだ」[5]

鳥居は25歳から67歳に至るまで、幾度となく東アジアを中心に調査を行った。それは鳥居の学んだ人類学の手法、特に師と仰いだ坪井正五郎の観察を中心とした手法を採用したためであった。以下にその様子を年を追って記す。

1895年(明治28年)、鳥居が遼東半島へ調査に行くチャンスを得たのは、まったくの偶然だった。東京理科大学の地質学の教員・神保小虎アイヌの知人を助手として遼東半島へ地質学調査に赴く予定だったが、事情によりその知人が同地に行けなくなった。そのため、代理として鳥居が遼東半島に行くこととなったのである。この遼東半島での調査で、鳥居は析木城付近にドルメンを発見した。この発見は、まさに鳥居が海外調査を精力的に行うにいたる契機となった。

1896年(明治29年)、東京帝国大学は日清戦争によって日本が得た新たな植民地・台湾の調査を依頼された。その際、人類学調査担当として派遣されたのが鳥居であった。鳥居は台湾での調査の際、はじめて写真撮影の手法を導入した。また、特に台湾東部の孤島・蘭嶼に住む原住民族・タオ族について念入りな観察を行っている。

身体形態の測定、これは、世界の人類学とは、理系の地質学・医学などなどを基礎とする「形態人類学」であり、地層分析から人骨測量など客観的データをもって、研究を進める学問的方法であり、そのため、フイールド・ワークにより、発掘した「証拠物」を理学的に検証し、始めて仮説を立てる、という非常に実証的研究方式で、だから鳥居は常に現場にいたのである。

もちろん表面的「観察」も重要視するが、実証できないことにつき、鳥居は根拠にしない。明治の人類学は、理系に基づく欧米流人類学であり、人類学者は自然科学者である(鳥居龍蔵『日本の人類学』他)。生活に関する詳細な記録も残しており、その観察眼は大変細やかであったとされる[要出典][6]

しかし、一方でタオ族の文化的特徴である漁業のタブーなどを、鳥居は一切報告しておらず、観察できない宗教的現象などを調査することは苦手であった。写真撮影の手法の導入やスケッチ・大量の文章などを残すことになった素地には「観察重視」の態度があったと考えられている。

1899年(明治32年)、台湾調査の合間に、坪井正五郎の命を受けて千島列島北部とカムチャッカ半島へのフィールドワークに向かう。この北千島への調査によって、千島アイヌが最近まで土器や石器を使用し、竪穴式住居に住んでいたことを発見し、鳥居はコロポックル論争にひとつの決着をつけることになる。アイヌ民話に登場する小人・コロポックルは伝説であり、それはアイヌ民族を起源としたものにほかならないということを調査によって実証したのである。

これは結果的に師である坪井正五郎の説を覆すことになる。なお、坪井は自説を実証させるために弟子を派遣したが、裏切られるような結論になったことについても受け入れたとされる。この北千島の調査結果は、1901年(明治34年)東京地学会の例会で発表され、1903年(明治36年)に『千島アイヌ』と題して刊行された。本書はフランス語で発表されたもので、欧米のアイヌ研究者の必修本と位置づけられている(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1902年(明治35年)、鳥居は台湾への調査の成果をいかし、中国西南地域へと向かう。台湾の「蕃族(鳥居による表現。中国古典における表現のままである)」(『中国古典』多数あり)と中国西南のミャオ族が人類学上密接な関係をもっているのではないかとの学術的要請のためである。これは鳥居にとって初の自らの学術的要請による調査であった。1902年7月から1903年3月にかけて、9か月にわたって主として貴州省ミャオ族雲南省イ族の調査を行い、西南中国と台湾と日本の共通性を探る試みを行った。しかし、「ある人々に妨止せられて」[7]中国西南部へは二度目の調査を行うことはなかった。

1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけても鳥居は満蒙調査を行っている。
1911年(明治44年)からは朝鮮半島の調査に入る。韓国併合後、朝鮮総督府は教科書編纂のために資料収集の必要に迫られた。そこで、「体質人類学・民俗学・考古学それぞれの方面にわたる調査」を鳥居に依嘱したのである。鳥居は人類学のみならず石器・古墳も積極的に調査した。その際には考古学者関野貞との説の違いも生じ、対立を生んでいる。後軍国傾向が強まる情勢の中、学問的真実にこだわる鳥居が、徐々にはずされて行った経緯がある(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1916年大正5年)論文「古代の日本民族」で、アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族を挙げている。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきたと考えた。日本人混血民族説(『鳥居龍蔵研究』第1号)を掲げた[8]
1919年(大正8年)、鳥居は調査の目をシベリアへ向け、アムール川流域を中心に詳細な先住民族調査を行っている。

1928年(昭和3年)、多忙な調査の合間、鳥居は当時ドイツ系専門学校の上智につき、自ら文部省にかけあい、大学に昇格させた。実質創立者の一人と言えよう。(『鳥居龍蔵研究』第1号)。

1931年昭和6年)、鳥居は第6回目の満州調査に出かける。1931年(昭和6年)9月満州事変が勃発、満州は政情不安定な状態になっていた。そんな中でも鳥居は城郭・墳墓類を綿密に調査している。

1937年(昭和12年)、外務省の文化使節として南米へ派遣。67歳と高齢にもかかわらず鳥居は精力的な調査を進め、インカ帝国の興亡についても積極的に発言している。鳥居は人類学教室の助手だった時代から南米に触れる機会が多かったにもかかわらず、「日本に関係がない」との先輩の発言などもあり、調査を怠っていたと理解していたようである。

1939年(昭和14年)に鳥居はアメリカ・ハーバード燕京研究所の招聘を受け、その研究者として、「客座教授」(中文)名義で、中国北京にあるハーバード大学の姉妹校である、燕京大学に赴任(『鳥居龍蔵の生涯』鳥居記念館・徳島)。このあとも引き続き、山東省でのフィールドワークを続けていた。旺盛な学究意識は途絶えることなく、第二次世界大戦後にいたるまで、ながく研究をつづけることとなった。

第二次世界大戦終結後、日本に帰還する。留守宅は空襲を受け、書庫と貴重な蔵書こそすべて無事だったものの、母屋は焼失していた。そのため、帰国後の生活は困窮をきわめた。吉田総理大臣がその邸宅を一部かしたくらいだった(『朝日新聞』[いつ?])。その様子が新聞に取り上げられ、励ましの金品が贈られてくるほどであった[要出典]

鳥居龍蔵の、その雄大なフイールド・ワークの業績とは、「未開拓の大陸の考古学や人類学・民族学の方面に、自ら足を踏み入れ、自らその閉ざされていた扉を開いたことであろう」[9]



www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/ - キャッシュ
鳥居龍蔵は、徳島が生んだ世界的な学者です。彼は、人類学、民族学、考古学など 多様な手法を駆使し、当時世界最先端の業績をあげましたが、その礎は、地元の歴史 や文化についてフィールドワークをもとに研究し、その成果を世に問いかけた少年時代の  ...
www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/denki.htm - キャッシュ
鳥居龍蔵(1870〜1953)は、明治から昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の 研究者です。1870年(明治3)4月4日、徳島市東船場に生まれました。小学校を中退し、 独学で人類学を学び、1890年には東京へ遊学、2年後の1892年には一家を挙げて ...






鳥居龍蔵の千島調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。


中川 裕



鳥居龍蔵が千島アイヌの調査を行ったのは、1899年(明治32年)のことである。一般に千島アイヌと呼ばれるのは、千島列島でもウルップ島以北の、いわゆる北千島に住むアイヌ人を指すが、当時すでに彼らは1884年(明治17年)の千島・樺太交換条約のあおりを受けて、色丹島に強制移住させられており、その人数も移住当時の97人から62人にまで減っていて、まさに消滅の危機に瀕していた。

1899年5月、鳥居は千島列島最北端の島であるシュムシュ島で発見された竪穴式住居と、そこに残された遺物を調査するため東京帝国大学人類学教室から派遣され、千島列島視察の任に赴く戦艦武蔵に便乗。同月6日函館を出航した。17日色丹島到着。そこで千島アイヌ人の通訳グレゴリー氏を雇い入れ、20日色丹島を発って、エトロフ、ウルップ、ブノレトン(マカンルル)、シムシル、ポロモシリの各島を歴訪、25日にシュムシュ島に到着。

そこで5日間ほど竪穴式住居と遺物の調査を行い、それが千島アイヌのものであることを確認。そして、6月5日に再び色丹島を訪れ、以後そこに24日間滞在して、彼らの形質、言語、民俗などを調査した。

 この報告は、1903年(明治36年)刊行の『千島アイヌ』にまとめられたが、予定されていた二巻のうち、研究史、地名、人名、人口、言語、考古学の一都を収めた前編しか刊行されず、民俗に関する部分などを報告するはずだった後編は刊行されずじまいだった。

その部分を含めた調査報告は、1919年(大正8年)に東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編として公刊された、"Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles."にまとめられたが、これはフランス語で書かれており、そのために国内ではあまり利用されてこなかった[同論文は、1976年(昭和51年)になって『鳥居龍蔵全集』第5巻に「考古学民族学研究・千島アイヌ」として邦訳収録された]。

 しかしこの調査記録は、それ以前のクラシェニンニコフ、シュテラー、ディボフスキ、ミルン、スノウなどの報告を踏まえた上で、さらに細かいところまでに観察の及んだものであり、以後本格的な調査が行われないままに千島アイヌの人々の風俗習慣そのものがまったく消滅してしまった今日、アイヌ研究にとって必須の文献であり、その価値が減じられることは永久にないだろう。

鳥居の調査報告が当時直接的に影響を与えたのは、1887年(明治20年)頃から盛んになった、有名なコロポックル論争であろう。コロポックル論争というのは、北海道の先住民(さらには日本全土の先住民)がアイヌ人の先祖であるか、それともコロポックルというアイヌの伝説中に現れる民族であるかという論争であり、彼の師である坪井正五郎博士はこのコロポックル説の先鋒であったが、彼の調査ははからずもそれを否定する結果となった。

アイヌ説をとる小金井良精博士らがそれに意を得て、坪井と激しく論戦を交わしたことが記録に残っている。

一方、言語学の分野では、1903年(明治36年)の『千島アイヌ』で公表されたアイヌ語千島方言の語彙集がおおいに利用された。千島方言の語彙記録は1755年に公刊されたクラシェニンニコフのものが最初であり、その後シュチラー、ディボフスキなどによって発表されている。

とくにディボフスキのものは、千島方言の語彙集としては現在にいたるまで最大のものであり、『千島アイヌ』の三倍の分量があるのだが、同書がポーランド語で書かれている上、一般の手には入りにくい本であったため、村山七郎氏が『北千島アイヌ語』(1971吉川弘文館)で同書の解説を行うまで、ほとんど利用されてこなかった。そこで、国内では『千島アイヌ』の語彙集を、アイヌ語千島方言の例として引用するのが一般的であった。たとえば、1964年(昭和39年)に刊行された服部四郎編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店)は、北海道から樺太にかけての9つの方言を現地調査して、それを一覧表にしたものだが、千島方言については当時すでに調査は不可能の状態であったので、『千島アイヌ』の語彙をそのまま引用して他の方言と同列に並べている。また、後に浅井亨氏がアイヌ語諸方言問の格差を統計学的に算出した際も、彼の語彙を千島方言のデータとして用いている。

 今回発見された写真原版のうち、当初千島のものとして分類されていたものは82点あった。そのうち48点は、1919年の論文に掲載された写真と同一であり、他の文献の挿図や、焼きつけされた写真そのものを撮影したようなものも多く、大部分は同論文の出版のために東京で撮影されたものと思われる。うち15点が、千島で採集されたと思われる民具類だが、ほとんどのものは写真に写っている原物そのものが、現在大阪の国立民族学博物館に所蔵されている。また、実際には掲載されていないが、おそらく同論文中に使うつもりで撮影されたと思われる写真がその他に11点ある。

次に、千島(おもに色丹島)で撮影したと思われる人物や風景のスナップ写真が13点ある。そのうち、1903年および1919年の論文で用いられているものは、武蔵船上で撮影されたわずか1点であり(48点の中に含めて数えてある)、あとの12点はむしろ論文に掲載したものの残りという感じがする。また、1912年(大正1年)に上野で開かれた拓殖博覧会会場で撮ったと思われる、ニヴフ、樺太アイヌ、北海道アイヌの人々と、その展示家産の写真が8点ある。写真の同定については、北海学園大学の藤村久和氏及び東京国立博物館の佐々木利和氏に御協力をいただいた。

http://www.muse.or.jp/torii/img/torii_camera30.jpgフォト・ギャラリーへ

http://www.muse.or.jp/torii/map/chishima_1m.jpghttp://www.muse.or.jp/torii/map/chishima_2m.jpg
[千島列島の民族分布図][鳥居龍蔵の千島調査地図]


■千島アイヌ関係著書・論文目録

以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。

1895(明治28)「アイヌの木偶と云へる物」『東京人類学雑誌』109号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:441−443
1899 (明治32)「千島土人制作の木偶」『東京人類学雑誌』163号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:443−445
1902 (明治35)「千島土人の土俗」『東京人類学雑誌』190号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:439−441
1903 a (明治36)『千島アイヌ』吉川弘文館;『鳥居龍蔵全集』第7巻:1−98
1903 b (明治36)「北千島アイヌの入墨に就て」『東京人類学雑誌』;『鳥居龍蔵全集』第7巻:445−447
1904 (明治37)「千島アイヌに就いて」『地学雑誌』16巻191・192号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:425−435
1913 (大正2)「民族学上千島アイヌの位置」『民俗』1年2報;『鳥居龍蔵全集』第12巻:700−706
1919 (大正8)『考古学民族学研究・千島アイヌ』Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles.東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:331−553
1933 (昭和8)「北千島アイヌの仮面」『ドルメン』2巻1号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:447−449
1939 (昭和14)「ミルン氏と私の北千島探査に就て」『武蔵野』26巻4号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:435−438

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高知工科大学・総合研究所 博物資源工学センター 鳥居龍蔵資料アーカイブ推進協議会
www.torii-museum.tokushima-ec.ed.jp/our.../default.html - キャッシュ
城山貝塚」は、徳島駅の北側、城山のふもとにあり、発見者鳥居龍蔵の名とともに、徳島 公園を訪れる人に親しまれている遺跡です。 今から87年前、鳥居龍蔵は、この場所から 貝殻が出










転載元転載元: 北海道にまた行きたいな



香川用水

   
香川用水(かがわようすい)は、県内における水源が十分ではない香川県の慢性的な水不足を解消するために建設された多目的水路


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概要[

香川県では年間降雨量が少なく、大きな河川が少ないため、旱魃による水不足は深刻で古来より多くのため池を築いてきたが十分な用水の確保は出来なかった。

また一方、讃岐山脈をはさんで徳島県吉野川周辺では大きな洪水による被害が度重なった。そのため吉野川流域の安全と水の安定供給を目的とした吉野川総合開発事業が計画され、早明浦ダム池田ダム(徳島県三好市)とともに計画の一環として香川用水は建設されることとなる。吉野川総合開発事業の発表から24年後の1974年に総工費3200億円(うち香川県負担分1154億)をかけて完成した。

香川用水の水源は吉野川にある早明浦ダムで、蓄えられた水は池田ダムから讃岐山脈を貫通しているトンネルを経て香川県に導かれ県内一円に農業用水水道用水工業用水を供給している。

水問題

用水完成後の渇水

香川用水完成以後、香川県内の水事情は大幅に改善され、かつての様な深刻な水不足も殆ど発生しなくなった。この為県下では香川用水から取水する自治体が急増し、中には100%香川用水の水に頼る様な自治体も現われた。
当初は香川用水から取水していれば水不足にはならないものと思われていたが、1994年夏に大渇水が発生。水瓶であるはずの早明浦ダムは貯水が底をつき、香川用水への水の供給が大幅に削減される事となる。この事態により香川県では香川用水に頼りきっていた水事情が仇となり、県内ほぼ全ての自治体で何時間にも渡って断水が行われるなど市民生活、経済活動に大きな影響が出た。
以降香川用水に出来るだけ頼らない様にと、県や各自治体では独自の水源を確保するなど用水への依存度を下げる為の渇水対策がなされている。



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関連施設

  • 香川用水取水工 - 池田ダムから1.8km上流の吉野川左岸に位置し、香川用水に水を取り込む。
  • 東西分水工 - 吉野川から取水され、阿讃トンネルを抜けた水が東部および西部幹線水路に分配される。周辺は香川用水記念公園として整備されている。

  • 東部幹線水路 - 三豊市で高瀬支線に分かれ、その後、琴平町まんのう町丸亀市綾川町高松市三木町さぬき市と経て、東かがわ市まで伸びる全長約74kmの幹線水路である。
  • 香川用水調整池(宝山湖) - 東部幹線水路の途中、三豊市にある貯水量300万m3の貯留施設。
  • 西部幹線水路 - 三豊市の東西分水工から、観音寺市まで流れる全長約13kmの幹線水路である。
  • 高瀬支線水路 - 東部幹線水路から分かれ、三豊市高瀬町まで流れる全長約11kmの水路である。
  • 浄水場 - 西部(三豊市)、中部(琴平町)、綾川(坂出市)、東部(高松市)の4つの浄水場がある。まんのう町を除く8市5町で水道水として用いられる。

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外部リンク

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水を大切にする社会への転換

        
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水資源対策

これからの水資源対策

 【水を大切にする社会への転換】

  近年、渇水が頻発する中で、水の大切さや水が限りある資源であることを改めて認識させられており、新たな水の確保だけでなく、限られた水の循環利用を進めるとともに、水を大切に使うという一人ひとりの取組みが欠かせないものになっています。



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◆水の循環利用等の促進

  • 県有施設の新築、改築時の雑用水利用施設の整備、公共建築物等の水洗トイレに下水処理水を活用するなど、飲み水ほどの高い水質を必要としない用途に使われる場合に、雨水や下水処理水の有効利用を推進します。

◆節水意識の高揚

  • 各種イベントを活用してパネルやグッズによる節水に関する知識や節水型機器の普及に努めたり、ホームページなどを活用した節水広報を行うことにより県民の節水意識を高めます。
  • 水資源への理解を深めるため、出前講座を実施したり、水の資料館の展示を充実させることなどにより、本県の水文化を引き継いでいきます。
  • 雑用水利用施設の設置促進などを内容とする水の有効利用及び節水の促進に関する条例を制定します。

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◆水を通じた地域連携の推進

  • 引き続き、香川用水の水源地域である吉野川上流域との交流などを進めるほか、県内においても森づくり活動への県民参加の推進と拡充を図ります。 
 
 水の資料館での展示風景(香川用水記念公園)
 
 宝山湖での植樹(県植樹祭)



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転載元転載元: 文化財を大切にしましょう。歴史を学び未来に活かしましょう




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香川用水資料館
所在地〒760-0017 香川県高松市番町2-4-5 香川用水記念館4F
TEL0878-22-2959
交 通JR高松駅から徒歩15分
開館時間9:00〜16:00
休館日日、土、祝、年末年始
入館料無料
主な内容香川用水の完成を記念し、農業用水等の水利開発に携わった先人の歴史とともに、香川用水の建設記録や水に関する文献、資料を収録、展示
主な展示品吉野川総合開発・香川用水関連文書資料その他
詳しくは… 
 
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高松市水道資料館
所在地〒761-8032 香川県高松市鶴市町御殿1360 御殿浄水場敷地内
TEL087-861-2920
交 通琴参バス「郷東橋」下車徒歩約15分 JR高松駅から車約12分
開館時間10:00〜17:00
休館日月、年末年始
入館料無料
主な内容近代水道の歴史と先人の偉業を残すため資料を保存
主な展示品PR館、歴史館、文化財建造物
詳しくは…http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/2309.html

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bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/180083 - キャッシュ
高松市水道資料館歴史館(旧ポンプ室) たかまつしすいどうしりょうかんれきしかん( きゅうぽんぷしつ). 大きく. その他の画像全3枚中3枚表示. 近代その他 / 大正 / 中国・四国. 香川県. 大正/1918. 木造平屋建,瓦葺,建築面積249㎡. 1棟. 香川県高松市 鶴市町御殿1360. 登録年月 ... 市水道資料館歴史館(旧ポンプ室)と チェックした作品をもとに関連する作品を探す. 20件で表示, 50件で表示, 100件で表示. 高松市水道資料館PR館(旧事務室) · 旧御殿水源地倉庫 · 熊本市水道記念館(旧八景水谷貯水池ポンプ場) ...
www.jwwa.or.jp/anzen/kinen.html - キャッシュ
札幌市水道記念館, 所在地. 〒064-0942 北海道札幌市中央区伏見4丁目. 設置目的. 水道事業への理解を深めてもらうとともに、子どもたちの学びの場、市民の憩いや活動の場として設置。 施設の概要、展示物. 水循環を表す「水の旅」というストーリーを展開し、参加性や体験性を重視した ... 水道記念館のPRに向けて一言, 水道記念館の展示内容により水道のしくみを楽しく学んでいただくとともに、隣接する藻岩浄水場の見学で本物を実感していただくことができます。 ...... 高松市上下水道局企業総務課, 087-839- 2711.
サイト内リンク:
北海道・東北 - 関東 - 中部 - 近畿
www.jalan.net > ... > 香川の観光 > 高松・東讃の観光 > 高松市の観光 - キャッシュ
評価(評価: 3)評価:3-1件のレビュー
高松市水道資料館の観光情報 営業期間:開館時間:10:00〜17:00、交通アクセス:(1) JR高松駅から車で15分。高松市水道資料館周辺情報も充実しています。香川の観光情報ならじゃらんnet 香東川の川沿いにあり御殿浄水場に隣接し,高松に.
www.museum.or.jp > ... > 博物館・美術館の検索 - キャッシュ
高松市水道資料館インターネットミュージアムによる、高松市水道資料館のご紹介ページ。高松市水道資料館の施設情報や、高松市水道資料館で行われる展覧会の予定など。高松市水道資料館のチケットプレゼントがある時も。高松市水道資料館に出かける前に、インターネットミュージアムをチェック!


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www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298232-d3486... - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-8件のレビュー
川崎市, 神奈川県. “素敵な建物”. 旅行していてわざわざ水道資料館に行くのも変なのですが、それに水道を勉強しているわけでもないので。。車を走らせている途中に、近くに素敵な洋館の水道資料館があると知り、立ち寄りました。大正時代に建てられた... 続きを読む ... 似たタイプの高松市の観光スポット. 高松市の美術館・博物館をすべて表示する. 香川県立ミュージアム. 口コミ数 : 34件. 3.9 km. 高松平家物語歴史館. 口コミ数 : 20件. 5.1 km. 高松市鬼ヶ島おにの館. 口コミ数 : 8件. 7 km. 香川県文化会館. 口コミ数 : 6件.
www.jalan.net > ... > 湘南・鎌倉の観光 > 寒川町(高座郡)の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4.1)評価:4.1-6件のレビュー
水道記念館の観光情報 営業期間:開館:9:30〜16:30、交通アクセス:(1)寒川駅から徒歩で10分。水道記念館周辺情報も充実しています。神奈川の観光情報ならじゃらんnet 水に関する資料の展示、オリジナルCGアニメ、アクアプレイランドな.
www.asahi-net.or.jp/~yh2t-isd/tak/job/suidokinenkan.htm - キャッシュ
岡山県岡山市 水道記念館 http://www.water.okayama.okayama.jp/1_suidoukyoku/ kanrenshisetu/kinenkan/kinenkan.html 鳥取県米子市 水道記念館 http://www. yonago-city.jp/suido/sub%20page11.htm 香川県 香川用水資料館 http://www. dokokyo.or.jp/pavilion/hakubutsukan/cyu_shi.htm#0702 香川県 水の資料館(香川用水記念公園内) http://www5.ocn.ne.jp/~mizupark/index2.html 香川県高松市 水道資料館・歴史館 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/suidou/keiei/siryokan.html
www.nikkenren.com/doboku/pavilion/.../cyu_shi.htm - キャッシュ
大鳴門橋架橋記念館, 〒772-0053, 徳島県鳴門市土鳴門町土佐泊浦字福池65. 香川用水資料館, 〒760-0017, 香川県高松市番町2-4-5 香川用水記念館4F. 高松市水道 資料館, 〒761-8032, 香川県高松市鶴市町御殿1360 御殿浄水場敷地内. 坂出発電所PR館(四国電力), 〒762-0064, 香川県坂出市番の州町2. 瀬戸大橋記念館, 〒762- 0065, 香川県坂出市番の州緑町6-13. 水の資料館(香川用水記念公園), 〒769-0402, 香川県三豊郡財田町財田中2355. 松山市水道資料館, 〒791-0101, 愛媛県松山市溝辺町 ...

水道記念館について

水に関する資料の展示、オリジナルCGアニメ、アクアプレイランドなど。

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転載元転載元: 文化財を大切にしましょう。歴史を学び未来に活かしましょう


www.my-kagawa.jp/course/2415/ - キャッシュ
香川県立ミュージアム. 香川県の成り立ちや空海の業績などの歴史と、猪熊弦一郎やイサム・ノグチなどゆかりの作家の芸術作品を展示。歴史と美術が融合した複合施設。 香川の歴史を映像や大型展示物をとおして体系的に理解できる歴史展示室や、弘法大師空海・高松松平家、さらには郷土ゆかりの美術作品などを紹介している常設展示室、十二単や鎧の試着ができる体験学習室などがあり、香川の歴史・美術・文化を体感することができます。 映画「百年の時計」のロケ地にもなりました。 基本情報を見る 詳細ページへ ...



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高松市道路元標




www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298232-... - キャッシュ
八栗寺、高松市の写真: お迎え大師 - トリップアドバイザー メンバーが投稿した写真 ( 6970 件) および八栗寺の動画をチェック.



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www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298232-... - キャッシュ
国分寺、高松市の写真: 延命地蔵、へんろ大師 - トリップアドバイザー メンバーが投稿した写真 (6837 件) および国分寺の動画をチェック.



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www.jorudan.co.jp/norikae/.../高松(香川)_川崎大師.html - キャッシュ
高松(香川)→川崎大師の乗換案内です。全国の電車、飛行機、バス、フェリーの時刻表・運賃・乗換案内・路線図・定期代・18きっぷなどが調べられます。スポットや住所までの検索も可能。始発・終電検索、運行情報、構内図、出口案内、地図も提供中。



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転載元転載元: 文化財を大切にしましょう。歴史を学び未来に活かしましょう


瀬戸内海 写真上は北東方向。左下に見える九州、中央に見える四国(島)、左中央から右上に見える本州にはさまれている


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概要

瀬戸内海の多島美、山口県周防大島町
東西に450km、南北に15-55km、平均水深:約38m、最大水深:約105m(豊予海峡および鳴門海峡)の内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。 医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年)の『支那旅行日記』により「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介され[1]、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である[2]

「瀬戸内海」の誕生

瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘播磨灘備後灘安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。

「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。

日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。本論の中で、小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。また、小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、後に帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・雲仙天草国立公園)、霧島(現・霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった[3]

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歴史

先史時代

1600万年前
日本列島がユーラシア大陸から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚マングローブが生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。
1,400万年前から1,000万年前
二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
7万年前
ウルム氷期始まる。現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。
1万年前
氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6,000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。

古代

住吉大社第一本宮
鞆の浦の町並み
厳島神社から見る瀬戸内海
古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは『魏志倭人伝』の記述や『日本書紀』の国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。
古代においては、摂津国住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使遣唐使の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。
奈良時代には陸上の交通路(山陽道南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。
平安時代中期は、嵯峨源氏渡辺綱を棟梁とする摂津国渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、渡辺氏の庶流である肥前国松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。
藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。
平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりした。

中世

鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国越智氏河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。

近世

豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力が排除され、回船商人らによる西廻り航路の一部(関門海峡大坂)として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たした。幕末には、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海していた[32]。1864年(元治元年)には,下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海が封鎖された際には、これを原因として馬関戦争長州藩の砲台と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きている。

近代

明治時代以降は鉄道開通などの本州・四国内交通網の整備、本州・四国間に瀬戸大橋の開通に至って、以前より交通路としての重要性は薄れたが、大正時代には阪神・別府間などに観光航路が開設され、戦後の観光ブームにも多くのクルーズ客船が往復し賑わいを見せていた。その後航路の主役はフェリーに移行したが、平成に入っても無数の定期航路が存続している。また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。


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閉鎖性海域対策関係

閉鎖性海域において実施されている水質総量削減、瀬戸内海の環境保全、有明海・八代海の環境保全等について紹介しています。

日本の閉鎖性海域データベース(閉鎖性海域ネット)


水質総量削減


瀬戸内海の環境の保全


海の再生


豊かな海

里海の創生

水環境改善のための国際協力


環境技術実証事業

その他の閉鎖性海域に関する情報リンク



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