ひるがの高原ひるがの高原(ひるがのこうげん)は岐阜県郡上市高鷲町にある高原。主に、同市高鷲町蛭ヶ野地内にある「蛭ヶ野高原」と鷲見地内にある「上野高原」のことを指すが、現在では、切立地内にある「明野高原」も含めて、高鷲町にある高原を総称して平仮名で表して呼ぶことがある。
同市高鷲町にある各高原名は地名では無いため、位置や範囲は明確にされておらず、ひらがなで表した「ひるがの高原」に明確な定義はない。
蛭ヶ野高原は「ひるがの高原」と、「蛭ヶ野」を平仮名にして表記されることが多く、地図にはこのように書かれていることが多い。キャンプ場やスキー場の名前は「ひるがの高原」と平仮名で書かれているが、「蛭ヶ野簡易郵便局」のように漢字表記の施設もある。
また、鷲見地内にある東海北陸自動車道のサービスエリアは上野高原にあるが「ひるがの高原」と平仮名で名前が付けられている。上野高原や明野高原で採れる夏大根は、「ひるがの高原だいこん」と呼ばれ、平仮名で商標登録がされている。
蛭ヶ野地内にある蛭ヶ野高層湿原植物群落では、岐阜県の天然記念物の指定を受けていて[1]、その周辺にはひるがの湿原植物園がある。夏は避暑地として、秋は紅葉狩り、スキー場があり、冬はスキーが楽しめる。アクセスは東海北陸自動車道高鷲IC、荘川IC、ひるがの高原サービスエリアスマートICが至近。
脚注
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外部リンク
北東の鷲ヶ岳の麓から長良川が発して南西に流れ、村の西境で白鳥町に出た。村の中心は、この長良川沿いにあった。
気候は冷涼で、年平均気温は13.0度、2月平均1.7度、7月平均26.5度。年間降雪量は、南部の大鷲で381mm、北部のひるがので568mm。
1897年(明治30年)4月1日 - 大鷲村、鮎立村、西洞村、鷲見村が合併して発足。 2004年(平成16年)3月1日 - 八幡町、大和町、白鳥町、美並村、明宝村、和良村と合併し郡上市が発足。同日高鷲村廃止。
なお当村は昭和の大合併で後の白鳥町との合併を検討しており後に離脱しているが、今回の合併で結局は同じ自治体となったものの、高鷲という地名は残った。(例 郡上市高鷲町大鷲)
たかす開拓記念館
www.city.gujo.gifu.jp > ... > 振興事務所 > 高鷲振興課 - キャッシュ
高鷲の開拓は、明治時代に北海道上名寄地区へ開拓移住を行なったことに遡ります。 その後、アジア太平洋戦争前には満州琿春地域へ開拓団を派遣しま した。高鷲各所での開拓は、昭和15年のひるがの開拓が始まりです。戦後、兵役や満州開拓から ... www.city.gujo.gifu.jp > ... > 市政 > 博物館・資料館 - キャッシュ
郡上市の北部に位置する高鷲町は、近代以降多くの人々が「開拓」に関わってきた地域です。 明治時代の北海道開拓に始まり、第二次世界大戦中には多くの村民が満州へ開拓移民として海を渡りました。戦後は、多雪で湿地帯という厳しい自然条件で知られた ... www.heiwakinen.jp > HOME > 館内イベント一覧 - キャッシュ
平和祈念展示資料館では他館と連携した交流展を行っています。この度は、岐阜県郡上市たかす開拓記念館と連携し平和祈念交流展を実施します。 昭和4(1929)年に始まった世界恐慌が年々深刻さを増していく中、昭和6(1931)年に満州 ... blog.livedoor.jp/mihohirai222/archives/4634209.html - キャッシュ
このあいだ岐阜に行ったときに、開館したばかりの「たかす開拓記念館」(郡上市)も訪れることができた。非常にわかりやすく展示案内が工夫されていて、満州開拓団の歩みや旧満州(中国東北部)での暮らし、さらに開拓移住の歴史なども ... |
岐阜観光写真
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八幡町 (岐阜県) 八幡町 廃止日 廃止理由 現在の自治体 廃止時点のデータ 国 地方 都道府県 郡団体コード 面積 総人口 隣接自治体 町の木 町の花 八幡町役場 所在地 座標
八幡町(はちまんちょう)は、岐阜県郡上郡にあった町である。2004年3月1日に郡上郡の7町村で合併し郡上市となる。一般に郡上八幡として知られている。古くから郡上郡の政治・商業などの中心地として栄え郡上市となった今も市役所や県の出先機関がおかれており郡上市の中核を担う町である。
飛騨高地の南部に位置する。長良川が町域を北から南に貫流しており、市街地の標高はおよそ200メートルで、町の東西の山地から支流が流れ込む。集落は長良川とその支流沿いに形成されており、長良川と支流の吉田川の合流点付近が市街地である。
町域には南東に突き出た部分があり、小那比川の流域に属する。これも長良川水系ではあるが、合流地点は下流の関市にあり、八幡町内では分水嶺で他地域と隔てられている。また、鬼谷川及び貢間川は木曽川水系である。
郡上おどり(重要無形民俗文化財)郡上おどりは、毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜にわたって開催される盆踊り。踊りは10種類あり、寺社の境内・一般の道路・街角の広場など、会場を移しながら開催される。特にお盆の時期(8月13 - 16日)に明け方まで夜通し踊り続ける『盂蘭盆会(徹夜踊り)』が有名。踊りは一般参加も可能。およそ400余年の歴史あり、日本三大盆踊りの一つ。1973年国の選択無形民俗文化財に選択され、1996年に重要無形民俗文化財に指定された。
水の町(水の郷百選)市街地には、17世紀に城下の防火などを目的に築造された水路が巡らされている。現在、一部は整備され観光資源となっているが、多くは生活用水として利用され続けている。湧水や山水を引き込んだ水舟と呼ばれる水槽の水は飲用も可能。1996年に水の郷百選に認定された。また、1996年に日本の音風景100選として「吉田川の川遊び」が選定された。
その他の名所
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郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。天守閣は築60年をこえる日本最古の木造再建城です。
現在、内部は歴史資料館などとして利用されています。市街地を流れる吉田川のほとりにそびえる山城で、城自体は小規模ですが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しいものです。11月上旬に行われている、園内ライトアップの期間中は天守閣が夜間開城されており、シーズンを通して唯一、夜の城下町を最上階からご覧いただけます。 郡上八幡城
郡上八幡城 (岐阜県) 別名 城郭構造 天守構造 築城主 築城年 主な改修者 主な城主 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川[1]の対岸にある赤谷山[2]に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。
現在の天守は、大垣城[3]を参考に昭和8年(1933年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた(本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。石垣が岐阜県史跡[4]に、天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。
郡上は戦国時代、織田信長や豊臣氏の家臣であった遠藤氏、次いで稲葉氏の支配下にあった。関ヶ原の戦いで稲葉氏が豊後臼杵藩に移された後、遠藤氏も関ヶ原で東軍に与して戦功を挙げたことから、遠藤慶隆は2万7,000石を与えられて旧領復帰を許され、ここに郡上藩が立藩した。第3代藩主・遠藤常友は弟の遠藤常昭に2,000石、同じく遠藤常紀に1,000石を分与したため、郡上藩は2万4,000石となった。そして寛文7年(1667年)に城を大改修したことから、遠藤氏は城主格から正式な城主として遇されることとなった。ところが第4代藩主・遠藤常春の時代である延宝5年(1677年)から百姓一揆と家中騒動が勃発する。常春はこれを天和3年(1683年)に一応鎮めたが、元禄2年(1689年)3月24日に謎の死を遂げた。
その後を継いだ遠藤常久は元禄5年(1692年)3月29日に7歳で家臣に毒殺された。嗣子もおらず、本来であれば改易となるところだが藩祖の功績を賞して存続が許され、遠藤氏は一族の遠藤胤親が同年5月に常陸・下野両国内で1万石(三上藩)を与えられて移封となった。
同年11月、井上正任が常陸笠間藩から5万石で入った。しかし第2代藩主・井上正岑のときである元禄10年(1697年)6月、丹波亀山藩に移封された。その後に出羽上山藩から金森氏が入った。ところが第2代藩主・金森頼錦の時代である宝暦4年(1754年)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起こる(いわゆる郡上一揆)。さらには石徹白騒動(白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦8年(1758年)12月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。
その後、丹後宮津藩から青山幸道が4万8,000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は凌霜隊を組織して幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。
遠藤盛数天文9年(1540年)、遠藤胤基(胤縁の子)の子で、小多良郷和田会津(現郡上市)に要害を構える和田五郎左衛門の勢力拡大を恐れた、宗家当主で篠脇城主の東常慶と謀り、兄胤縁と共に五郎左衛門を暗殺した[1]。
天文21年(1552年)、東氏の一族で福野城主の、河合七郎の勢力拡大を恐れた東常慶の命により、福野城を急襲して七郎一族を滅ぼした。それまで兄の木越城に同居していた盛数は、七郎の領地だった下川筋(現郡上市美並町)を与えられ、新たに鶴尾山城を築いた[3]。
東常慶には実子常堯がいたが、悪逆非道だったため盛数が婿養子に迎えられ、弘治年間(1555年 - 1558年)に家督を譲られたとも言われる[4]。その一方で、常慶は常堯を遠藤胤縁の娘と縁組させようともしたが、胤縁は常堯の非道を理由に同意せず、娘を畑佐六郎右衛門に縁付かせた。これを恨んだ常堯は、永禄2年(1559年)8月1日に胤縁が東殿山城を訪問すると、家臣長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺させた[5]。
かねてより宗家に取って代わることを考えていた盛数は、兄の弔い合戦を大義名分に郡内の諸豪を募り、8月14日に兵を挙げた。一説には飛騨の三木良頼の加勢も得て、八幡山山頂に布陣。10日間にわたる攻城戦の末、東殿山城を落城させ常慶を滅ぼした[6]。盛数はこのとき布陣した八幡山に、新たに八幡城を築いた[7]。
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当館は、岐阜県百年公園(関市小屋名)内の自然豊かな里山に岐阜県初の「総合博物館」として昭和51年5月に開館しました。
日本のほぼ中央に位置する清流の国ぎふは、海抜0メートルから3000メートルを超える変化に富んだ地形を有しており、飛騨地方を中心とした「山の国」と、美濃地方平野部の「水の国」という特徴的な二つの地域からなっています。その本県の姿を、当館では、自然・人文両分野の資料を通して皆様に紹介して参りました。収蔵資料は自然分野を中心に13万点を数えます。
自然分野では、郷土の自然の展示や、特色ある自然物や事象を系統的に展示し、人文分野では、先史時代から現代に至るまでの郷土の歴史や特色ある民俗、美術工芸を部門別・時代別に展示しています。
また、これらの常設展示に加え特別展・企画展、資料紹介展の開催のほか、県内各地の文化施設で身近に博物館の企画展を観覧いただけるよう移動展も行っています。
さらに、生涯学習時代に県民が自ら調査、収集、研究した優れた資料コレクションや作品を企画展示する「マイミュージアムギャラリー」は、出展・観覧を無料で行うほか、高校生の文化芸術の成果発表・交流の場として「U−18ミュージアム」を開設しました。
また、教育普及活動として、観察会やワークショップ、講演会、各種イベントなど多彩な催しものを開催し、県民の生涯学習の場や学校教育の支援の場ともなるよう努めています。「教員のための博物館の日」を開催し、教員自身が自発的に博物館を楽しみ、親しんで、博物館の学習資源の魅力に理解を深めてもらい、児童・生徒と博物館をつなぐ人材がさらに増えていくことを期待しています。
博物館活動の在り方は、時代の変化と社会のニーズに応じて見直していくことも大切であると考えています。社会のための博物館という視点にも着目し、他の博物館、大学、研究機関との連携を深めて、互いが有する資源の有効活用を図り、さらには企業・業界団体など異分野とのコラボレーションを通じて、新たな切り口での企画展示や催しを開催するなど、皆様と共に新しい岐阜県博物館を展開していきたいと考えます。
ぜひとも博物館の様々な活動にご参加いただきますとともに、自由なご意見・ご提言をお寄せくださいますようよろしくお願いします。
平成29年4月
岐阜県博物館長 河童の外見
妖怪画で知られる鳥山石燕による河童 体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多い。
18世紀以前の本草・博物学書上では、河童のイメージは両生類的ではなかった[3]。例えば、文安元年(1444年)に成立した『下学集』には「獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る」とある。また、『日葡辞書』の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿に似た獣の一種と説明されている。18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれ、19世紀には出版物を通じて全国に伝播し、置き換えられていった[4]。
亀人形態体はウロコで覆われ嘴があり、頭には皿を乗せている。頭の皿が割れると死ぬ、または力を失い衰弱する。背中に甲羅があり手足に水かきがある。爬虫類が原型なのか、絵では手の親指がないことが多い。亀のように四本足で歩く絵も見受けられる。キュウリを好む。
絵に書かれることは多いが、キュウリが好物という以外には具体的に何をしたという特徴もない。一般的な河童の想像図に近い反面、目撃談は意外に少ない。
類人猿形態全身が毛に覆われている。口には牙があり、鼻の造形がはっきりしない。頭部にはくぼみがあり、そこに常に水を溜めている。その水が乾くと死ぬ、または衰弱する。手には親指があり、足にはかかとがある。相撲が得意でよく人間の子供と遊ぶ。
存在する河童絵の3割程度は猿型だが、中には背中の甲羅が書かれていないものもある。
昭和以降の目撃談で、遠目には人間に見えるというのはこの種類と見て間違いない[誰?]。甲羅を紐で結んでいる絵も多く見受けられるので、甲羅様の道具を蓑のように使っている人間であるとも考えられている。ごくまれに甲羅でなく蓑のようなものに背中を覆われている絵もある。
行動
葛飾北斎による河童 悪戯好きだが悪さをしない妖怪として伝えられる場合もあるが、多くは水辺を通りかかったり、泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺すなどの悪事を働く。抜いた尻子玉は食べたり竜王に税金として納めたりする。
尻子玉とはヒトの肛門内にあると想像された架空の臓器で、これを抜かれるとふぬけになると言われている。この伝承は溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子があたかも尻からなにかを抜かれたように見えたことに由来するようである(尻子玉は胃や腸などの内臓を意味するという説もある)。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様の溺死者の姿があたかも内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる[5]。
相撲が大好きでよく子供を相撲に誘う。相撲に負けた子供は尻子玉を抜かれる。河童は大人よりも力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば子供でも負けないと言われている。また相撲をとる前にお辞儀をすると河童もお辞儀を返し、それにより頭の皿の水がこぼれてしまうため、力が出せなくなるともいう。河童が相撲を好むのは相撲が元々水神に奉げる行事だったためとも言われる[6]。
好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる[7]。
義理堅く、魚や薬の製法を恩返しとして提供する民話も多く存在する。
起源
歌川国芳画、多嘉木虎之助。田村川で川虎(河童)を生け捕る図 河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが(河伯信仰を参照)、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。
河神[8]が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談がある。
頭の皿については、民俗学者の折口信夫が『河童の話』で興味深い指摘をしている[9]。皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である。これに関しては椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、龍宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)[10]、淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる。
また折口は、壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁あるいは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として割ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている。
岐阜県でも約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。
他にも山中の狭い細尾根にある遺跡(揖斐川町藤橋村徳山寺屋敷遺跡)や低湿地の遺跡(飛騨市宮川村宮ノ前遺跡)が確認されている。それらの遺跡から石を割ってで切る剥片でつくった石器、例えばナイフ形石器・削器・細石刃・尖頭器など、また調理に使ったと考えられる礫郡、加工痕のある木片などのいろいろな生活用具が見つかっている[2]。
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岐阜県博物館の交通アクセスhttp://www.gifu-kenpaku.jp/wp-content/uploads/2017/10/access_map.jpg所在地
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脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道以外の主要な街道をいう。脇街道(わきかいどう)、また単に脇道(わきみち)ともいった。五街道とともに江戸幕府が直轄した主要幹線道路で幕府から重要視されたため、五街道と同様に道中奉行が管理し、宿駅・一里塚・並木などが整備された所も多い[2]。
主な脇往還五街道の脇往還その他美濃国 美濃国 別称所属 相当領域 諸元国力距離郡・郷数 国内主要施設美濃国府美濃国分寺美濃国分尼寺一宮
美濃」の名称[ソースを編集]
美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。
そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる[2]。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。
別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。
沿革霊亀元年(715年)7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた(『続日本紀』)。大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』斉明天皇6年10月条)。[3]
その後平安末期までに木曽は信濃国という認識がされ始めており平家物語などは信濃国木曽と記述するようになる。鎌倉時代には大吉祖荘は信濃、小木曽荘は美濃と書かれる傾向にあった。室町時代中頃まで美濃国木曾荘という記述が見られるが、最終的に武田信玄が領有した戦国期には確定し信濃国筑摩郡に編入されたと推定されている。
天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。
平成の大合併の際にも、山口村の中津川市への編入が問題となり、中山道馬籠宿という観光地を失うことになる長野県から強い反対があったが、元々山口村は、日本海側である長野市との繋がりが浅いため、2005年(平成17年)に長野県から離脱し、岐阜県中津川市へ編入された。これは平成の大合併における唯一の越境合併であった。
国内の施設国府国分寺・国分尼寺
神社関所
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