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奄美大島で環境歴史写真

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1944(昭和19)年8月22日夜10時過ぎ、疎開学童、引率教員、一般疎開者ら1788名を乗せて
沖縄から長崎へ向かっていた対馬丸は、悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦の魚雷攻撃
を受け、わずか11分で撃沈。学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が犠牲になったのでした。

沖縄県那覇市にある「対馬丸記念館」のHPには
http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html
『1962年、沈没の海を臨む悪石島西海岸に対馬丸慰霊碑が建立されました。これは、当時の悪石島
小学校の校長先生らの手によって建てられたもので、石段の上に並ぶ4つの石碑には、住民たちから
のお供え物が絶えず、同校の子どもたちも草刈りや花を添えて手厚く祀りました。
悪石島では今でもボランティア活動の一環として毎月の「対馬丸慰霊碑」周辺の清掃活動や毎年の
慰霊祭を欠かさず、授業で取り上げたりと、子どもたちは対馬丸を通して平和の大切さを学んで
います。』
と紹介されていますが、こちらの写真がその「対馬丸慰霊碑」になります。

碑の左手に供えられた千羽鶴は、悪石島の子供達、そして諏訪之瀬島の子供達からのもの。
人口わずか80人ほどの悪石島ですが、この慰霊碑は、島民挙げて守り続けているそうです。
http://www12.synapse.ne.jp/akuseki/h17/h17tsushimamarunohi.html

ほんのわずかな時間でしたがお参りを済ませ、すぐに港へとバックです。
この次の島が、今回の下船地・小宝島になります。

★ 前回までの書き込み
http://blogs.yahoo.co.jp/gionkashiwazaki/24382163.html
http://blogs.yahoo.co.jp/gionkashiwazaki/24577419.html

転載元転載元: あしたは いずこの 空の下??

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宇宿貝塚



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奄美群島の歴史(あまみぐんとうのれきし)は、日本鹿児島県奄美群島の地域史。

下の黄色いところが奄美です。

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先史時代

奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。


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日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。


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逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。

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4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。
ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。


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鹿児島県奄美市/奄美博物館紹介

奄美博物館紹介 奄美は、古くから日本本土と中国、東南アジアとの接点にあり、独特の文化圏を形成してきました。小さな島嶼地域でありながら、その歴史は琉球に属したり、薩摩藩に組み入れられたり、アメリカ軍政下におかれる ...


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奄美大島座標面積 海岸線長 最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属諸島 所属国・地域
Amami Oshima ISS019.jpg
北緯28度19分35秒
東経129度22分28秒
座標: 北緯28度19分35秒 東経129度22分28秒
712.35 km²
461.1 km
694 m
湯湾岳
奄美市
周囲はすべて東シナ海
奄美群島
日本の旗 日本鹿児島県
テンプレートを表示
マネン崎
奄美群島(薩南諸島南部)

古代

奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年文武天皇3年)に「菴美」、714年和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由してへ向かっている。


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735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語通訳を置くことも記されている。997年長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火掠奪をしたという(『小右記』)。






翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている。ただし、同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。




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中世

この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。


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奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。

グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。



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海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。

12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。



鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏惣領嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。

六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。

琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。

奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。


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琉球時代

1266年文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。




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琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏1416年応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国によって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。1450年宝徳2年)から1462年寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。

1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。

1537年天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。

最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。1571年元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。

琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。

16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。

役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。

しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。

1587年天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、琉球に課された琉球軍役を肩代りすることも理由として、琉球王国に圧力を更に強めていった。

琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。



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近世

名越左源太南島雑話に描かれた、幕末期の砂糖取引の様子。民衆の服装は琉球と共通する。

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1603年慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。

1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日3月22日)に徳之島4月28日3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。




薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。




薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉サゴの一種)をとってなどに加工し、食用とした。

奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。


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近代

明治維新後の1879年明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国

転載元転載元: 奄美大島や加計呂麻島は良かったよ! バニラエアは今がお得

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先史時代

奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。
日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。

また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。

ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。



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ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。



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対馬峰町歴史資料館

貝輪(かいわ)とは、貝殻で作られた腕輪のことで、特に古代日本で使われたものを指す。

貝輪は縄文時代からあり、サルボウなど大型二枚貝に穴を開けたものが広く見つかっている。弥生時代になると、九州北部などで巻貝類のカサガイオオツタノハなどに穴を開けたものや、イモガイゴホウラスイジガイなどを切って作った貝輪が盛行し、当時の支配階級を表すものであったと見られる。

これらの貝の多くは奄美群島以南に産するもので、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっており、九州との間で盛んに取引されたと見られる。山口県の土井ケ浜人類学ミュージアムや、種子島薩摩半島対馬における歴史民俗資料館などで多数保管展示されている。例外的に北海道でも有珠モシリ遺跡続縄文時代)でイモガイ製腕輪が見つかっている。

弥生時代末期頃からは青銅や石(碧玉など)を用いて貝輪に似せたと見られるデザインの腕輪や装飾品が作られるようになった。これらにはゴホウラに似た鍬形石(くわがたいし)や銅釧(どうくしろ)、カサガイに似た車輪石、イモガイに似た石釧、さらに輪ではないがスイジガイに似せたともいわれる盾などの飾りである巴型銅器(ともえがたどうき)があり、古墳時代には西日本一帯で用いられた。



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開元通宝

  
開通元寳(開元通寳)
開元通寳(開通元寳)

開元通宝(かいげんつうほう)は、代において武徳4年(621年)に初鋳され、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣。
開元通宝は半両銭五銖銭の形態を継承し[1]、直径は8分(約24mm)である。この銭貨1枚の質量は2銖4絫、すなわち1両(大両)の1/10(約3.73g)であり、ここから質量の単位である「銭」が生まれた。「1斤=16両、1両=24銖、1銖=10絫(るい)」という従来の複雑な体系にかわり、「1斤=16両」はそのままだが、それ以下は「1両=10銭、1銭=10分、1分=10厘、1厘=10毫」という10進法の体系が使われるようになった。重量単位の銭は日本に伝来すると1と呼ばれるようになった。


名称

この銭貨の読み方は「上・下・右・左」の順である対読では「開元通寳」となり、「上・右・下・左」である廻読では「開通元寳」となり、どちらであっても意味が通じるため、古くからこの2説が並行し、論争の的となり、現在でも結論は出ていない。

唐代の開元26年(738年)に出版された『唐六典』には「武徳中、悉く五銖を除き、再ためて開通元寳を鋳る」と記述しており 一方で詔勅文としては『旧唐書』の中で「仍令天下置鑪之処並鋳開元通寳銭」と記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約100年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない。

唐代の他の銅銭を見ると、史思明が作ったという「順天元宝・得一元宝」や8世紀後半の「大暦元宝」では「元宝」が、8世紀後半の「建中通宝」では「通宝」が使われている。唐代以降も「元宝」・「通宝」の両方の例がある。

影響

この円形方孔の形式は末まで続き、日本など周辺国の銅銭の模範にもなった。

種類

  • 開元高祖の武徳4年(621年)初鋳。書は欧陽詢による。
  • 会昌開元武宗会昌5年(845年)に鋳造された開元通宝。会昌の廃仏で徴発された仏像仏具から鋳造されたとされる。裏面に鋳造地を表す文字が鋳出されている。
    例:昌(「会昌」の昌、鋳地は揚州と言われている)、京(京兆府=長安)、洛(河南府=洛陽)、益(益州=成都)、藍(藍田県)、襄(襄州=襄陽)、荊(荊州)、越(越州)、宣(宣州=宣城)、洪(洪州)、潭(潭州)、兗(兗州)、梁(梁州)、潤(潤州)、鄂(鄂州)、平(平州)、興(興元府=漢中)、廣(廣州)、梓(梓州)、福(福州)、丹(丹州)、桂(桂陽監)等。
  • 唐以外にも南唐南漢呉越でも鋳造されている。南唐発行のものは銭銘が篆書体であることが特徴である。
  • 直径が小さいものも見られるが、多くは私鋳銭である。


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転載元転載元: 奄美大島や加計呂麻島は良かったよ! バニラエアは今がお得

奄美群島の中世



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中世

この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。

奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。

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交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。

按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。

12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。


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鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏惣領嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。
琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。

奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
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平家の落人とは

今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。そもそも平家の落人とは、源氏平家とが雌雄を決した源平合戦で一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いにおいて平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。武士に限っては平家の落武者と呼ぶ場合もあるが、落ち延びたのは武士だけではないことから平家の落人という言われ方をすることの方が比較的多い。そうした平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。

平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という概念が形容するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の例もあった。
中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。

後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方城助職の起こした謀叛などをみても、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。学界で平家落人を研究したのは柳田國男松永伍一角田文衛らであるが、証拠があまりにも少なすぎるために推測を交えざるをえないことから、学者の間でも説が食い違うことはよくある。以下の平家落人集落の比定でも、ある学者は平家の落人の存在を肯定するが、別の学者が否定しているケースも少なからず存在している。例えば柳田が全否定した沖縄の南走平家については、大川純一ら、沖縄の郷土史家の間では肯定的な意見が強い。角田が肯定した対馬宗家の平家末裔説も、他の学者は否定的である。といった具合である。

問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生するのである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。これらの後世の捏造文書が非常に真実の探求を妨げているのである。[1]

平家の隠れ里

平家の落人は大抵、山の奥深くや離れ島や孤島などに存在している。そのため、平家は人口が少ないところや山間部や谷間など人がよりがたい所に里を築く。
食器や生活用品を洗ったりする時に川に誤って流してしまったり山中に落としてしまったりで外部の人間にきづかれたりすることがある。ただし、気づくのはごく少数であり、平家の落人の隠れ里にいけるのも少数である。こういった場合、再度隠れ里に行くことができなかったり川上から漆塗りの器が流れてきたりすることから隠れ里自体を妖怪化して考えることがある。このため、平家の隠れ里が『隠れ里』として神秘的な存在にとられることも多い。

平家の落人

平家の落人(へいけのおちうど)とは、治承・寿永の乱(源平合戦)において敗北し僻地に隠遁した敗残者のこと。主に平家一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられる。



鹿児島県大島郡奄美群島
平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約3年間喜界島に潜伏。弟の平有盛、いとこの平行盛と合流して、ともに奄美大島に来訪したという。2005年に平家来島800年記念祭が行われた。柳田國男は「モリ」というのは郷土の神の名であり、後世になってこの伝説は作られたのではないかと考えているが異論も多い。
  • 喜界町志戸桶(喜界島)、奄美群島に到着した平家が最初に築いたといわれる七城跡がある。
  • 喜界町早町、源氏警戒のため築いた城跡がある、平家森と呼ばれている。
  • 奄美市名瀬浦上(奄美大島)、有盛を祀った平有盛神社がある、有盛が築いた浦上城跡と言われている。
  • 瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)、資盛を祀った大屯(おおちょん)神社がある。


  • 龍郷町戸口(奄美大島)、行盛が築いた戸口城跡がある。現地には行盛を祀った平行盛神社もあるが、城跡とは離れている。
  • 龍郷町今井崎(奄美大島)、行盛により今井権田大夫が源氏警戒のため配された。今井権現が建っている。
  • 奄美市笠利町蒲生崎(奄美大島)、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配された。


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転載元転載元: 奄美大島や加計呂麻島は良かったよ! バニラエアは今がお得






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藤都喜エ門が生涯を捧げた大島紬と奄美の自然・文化に触れられる名所です。
 海のシルクロードをイメージした「日本風庭園」とブーゲンブリア・ソテツなど南国情緒あふれる「奄美風庭園」が観る者を南の島へ誘います。
 大島紬の製造工場や「都喜エ門」ブランドを展示する美術館を見ることができます。
 また、草木染体験や「大島紬製品」「奄美特産品」の販売を行っているほか、レストラン「花ん華」では奄美大島の郷土料理である「鶏飯」を食べることができます。



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都喜ヱ門は「紬一つをわが命とぞする」を人生哲学として、七十有余年を大島紬と共に歩みました。本場大島紬の伝統技法をベースにしながらも新しい図柄・技法を求め、より忠実に表現するための絣や染色技法を開発し時代を先取りする作品創りに打ち込んでいました。1973年には『都喜ヱ門』ブランドを展開し、多くの方々に愛されてきました。
1994年には「百寿」が海を渡り、英国立ヴィクトリア博物館に収蔵され美術作品として世界的に評価されることとなり、海外はもとより国内でも高い評価を受け、数々の有識者がご来園くださりました。


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糸を糸巻きにかけていく工程です。


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トリキリアゲ




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ハジキ

かつての琉球列島で女性の手に施されていた刺青 ハジチ 針突 について

現代では人形、絵画、マンガ、ゲームなどでは再現されることがない、かつての民族習慣である針衝 針突(はじち ハジチ  ハヅキ はりとつ)についてまとめました。


滅亡した琉球
blog更新。「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 kousyou.cc/archives/11106
同じく滅びた習慣である琉球諸島のハジチ
ハジチ彫りを生業とする針突師(ハジチャー)が居て、各地を廻り、「首里那覇では今、菱形模様が流行っている」などと、情報を提供してハジチ商売をしていたようだ。

場所によっては、心得のある者が、その地域のハジチを一手に引き受けていた…地方の女子たちは、1〜2年に一度やって来る針突師を心待ちにしていたんだって。

…親たちも、この針突費用稼ぎだけは、大目にみていたようだ。むしろ、奨励していたような節がある。

初めて針突をする手を「サラ手。サラてぃー」と言い「まっさらな手」を意味する。奇数年齢の年の吉日を選び、そのサラ手に「ハジチ」が施されると、家族はもちろん、友人知人が集まり、祝いの座が設けられた。美風だったのである。
 
針突の所要時間は存外に短く、3、4時間。術後はトーヌカシー(おから)で突き跡を洗い、痛さと腫れを引かせたようだ。
トーヌカシーには民間療法の特効があったのだろうか。神経が細やかな指や手の甲を針で突くのだから、痛くないわけがない。
ハジチセーク(針突き職人、ハジチャーとも)とよばれる専門の女性があたったという。
泡盛で墨をすり、それを手の甲に模様を描いてから針に墨をつけ、上から縫い針を束ねて突くやり方と、針で突きながら模様をつくっていくやり方があったという。針で突く痛みをこらえるために、大豆を煎って黒砂糖でまぶしたものを食べたようだ。
始めて7歳前後の少女の中指と無名指とに豆大の點を黥し,人妻となり出産前後又は24〜5歳に至りて手背に黥するのを通例

十文宇形の紋様臓物の上達せんが爲めの黥…

カシキと稱し絲巻を示した紋様であつて,意味は前掲のものと同じく織物の巧みならんが爲めの黥…

鋏を示した紋様であつて,機又は縫物の上手ならんが爲めの黥

繊維工業学会誌
Vol. 6 (1940) No. 4 P 149-167
JST.Journalarchive/fiber1935/6.149

この写真によって、人々がこの個人的な装飾の方法に頼った度合いに関していくらか見当がつきます。日本政府はこの風習を禁止しましたが、かつてこの習慣が広く行われていた時代には、違った島あるいは違った社会階層から来た女性は、手や腕に彫り込まれた模様によってただちに区別することができたのです。

転載元転載元: 奄美大島や加計呂麻島は良かったよ! バニラエアは今がお得

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