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1944(昭和19)年8月22日夜10時過ぎ、疎開学童、引率教員、一般疎開者ら1788名を乗せて 沖縄から長崎へ向かっていた対馬丸は、悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦の魚雷攻撃 を受け、わずか11分で撃沈。学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が犠牲になったのでした。 沖縄県那覇市にある「対馬丸記念館」のHPには http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html 『1962年、沈没の海を臨む悪石島西海岸に対馬丸慰霊碑が建立されました。これは、当時の悪石島 小学校の校長先生らの手によって建てられたもので、石段の上に並ぶ4つの石碑には、住民たちから のお供え物が絶えず、同校の子どもたちも草刈りや花を添えて手厚く祀りました。 悪石島では今でもボランティア活動の一環として毎月の「対馬丸慰霊碑」周辺の清掃活動や毎年の 慰霊祭を欠かさず、授業で取り上げたりと、子どもたちは対馬丸を通して平和の大切さを学んで います。』 と紹介されていますが、こちらの写真がその「対馬丸慰霊碑」になります。 碑の左手に供えられた千羽鶴は、悪石島の子供達、そして諏訪之瀬島の子供達からのもの。 人口わずか80人ほどの悪石島ですが、この慰霊碑は、島民挙げて守り続けているそうです。 http://www12.synapse.ne.jp/akuseki/h17/h17tsushimamarunohi.html ほんのわずかな時間でしたがお参りを済ませ、すぐに港へとバックです。 この次の島が、今回の下船地・小宝島になります。 ★ 前回までの書き込み http://blogs.yahoo.co.jp/gionkashiwazaki/24382163.html http://blogs.yahoo.co.jp/gionkashiwazaki/24577419.html
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奄美大島で環境歴史写真
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宇宿貝塚
下の黄色いところが奄美です。
先史時代奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。
日本本土や沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代・古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島・屋久島・口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。
逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ製貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。
ヤコウガイなどは、螺鈿や杯の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。
鹿児島県奄美市/奄美博物館紹介奄美博物館紹介 奄美は、古くから日本本土と中国、東南アジアとの接点にあり、独特の文化圏を形成してきました。小さな島嶼地域でありながら、その歴史は琉球に属したり、薩摩藩に組み入れられたり、アメリカ軍政下におかれる ...
奄美大島座標面積 海岸線長 最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属諸島 所属国・地域
奄美群島(薩南諸島南部) 古代奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。
翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている。ただし、同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。
中世この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。
奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。
グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。
海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。
12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。
鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏の惣領・嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。
琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。
奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
琉球時代1266年(文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。
琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。
15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏は1416年(応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島と沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年(応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国によって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。
1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。
1537年(天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。
最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。1571年(元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。
琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。
16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。
役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。
琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩と大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。
しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。
琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。
近世「琉球侵攻」を参照
1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。
奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。
また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。
近代 |
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奄美群島の先史時代:奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時
先史時代奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。
日本本土や沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代・古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島・屋久島・口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。
また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ製貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。
ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。
ヤコウガイなどは、螺鈿や杯の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。
対馬峰町歴史資料館
貝輪(かいわ)とは、貝殻で作られた腕輪のことで、特に古代日本で使われたものを指す。貝輪は縄文時代からあり、サルボウなど大型二枚貝に穴を開けたものが広く見つかっている。弥生時代になると、九州北部などで巻貝類のカサガイやオオツタノハなどに穴を開けたものや、イモガイ、ゴホウラ、スイジガイなどを切って作った貝輪が盛行し、当時の支配階級を表すものであったと見られる。
これらの貝の多くは奄美群島以南に産するもので、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっており、九州との間で盛んに取引されたと見られる。山口県の土井ケ浜人類学ミュージアムや、種子島・薩摩半島・対馬における歴史民俗資料館などで多数保管展示されている。例外的に北海道でも有珠モシリ遺跡(続縄文時代)でイモガイ製腕輪が見つかっている。
開元通宝名称この銭貨の読み方は「上・下・右・左」の順である対読では「開元通寳」となり、「上・右・下・左」である廻読では「開通元寳」となり、どちらであっても意味が通じるため、古くからこの2説が並行し、論争の的となり、現在でも結論は出ていない。
唐代の開元26年(738年)に出版された『唐六典』には「武徳中、悉く五銖を除き、再ためて開通元寳を鋳る」と記述しており 一方で詔勅文としては『旧唐書』の中で「仍令天下置鑪之処並鋳開元通寳銭」と記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約100年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない。
唐代の他の銅銭を見ると、史思明が作ったという「順天元宝・得一元宝」や8世紀後半の「大暦元宝」では「元宝」が、8世紀後半の「建中通宝」では「通宝」が使われている。唐代以降も「元宝」・「通宝」の両方の例がある。
影響この円形方孔の形式は清末まで続き、日本など周辺国の銅銭の模範にもなった。
種類
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中世この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。
奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。
交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。
按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。
12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。
鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏の惣領・嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。
琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。
奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
平家の落人とは今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。そもそも平家の落人とは、源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦で一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにおいて平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。武士に限っては平家の落武者と呼ぶ場合もあるが、落ち延びたのは武士だけではないことから平家の落人という言われ方をすることの方が比較的多い。そうした平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。
平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という概念が形容するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の例もあった。
中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。
後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方城助職の起こした謀叛などをみても、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。学界で平家落人を研究したのは柳田國男・松永伍一・角田文衛らであるが、証拠があまりにも少なすぎるために推測を交えざるをえないことから、学者の間でも説が食い違うことはよくある。以下の平家落人集落の比定でも、ある学者は平家の落人の存在を肯定するが、別の学者が否定しているケースも少なからず存在している。例えば柳田が全否定した沖縄の南走平家については、大川純一ら、沖縄の郷土史家の間では肯定的な意見が強い。角田が肯定した対馬宗家の平家末裔説も、他の学者は否定的である。といった具合である。
問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生するのである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。これらの後世の捏造文書が非常に真実の探求を妨げているのである。[1]
平家の隠れ里平家の落人は大抵、山の奥深くや離れ島や孤島などに存在している。そのため、平家は人口が少ないところや山間部や谷間など人がよりがたい所に里を築く。
食器や生活用品を洗ったりする時に川に誤って流してしまったり山中に落としてしまったりで外部の人間にきづかれたりすることがある。ただし、気づくのはごく少数であり、平家の落人の隠れ里にいけるのも少数である。こういった場合、再度隠れ里に行くことができなかったり川上から漆塗りの器が流れてきたりすることから隠れ里自体を妖怪化して考えることがある。このため、平家の隠れ里が『隠れ里』として神秘的な存在にとられることも多い。
平家の落人
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藤都喜エ門が生涯を捧げた大島紬と奄美の自然・文化に触れられる名所です。
海のシルクロードをイメージした「日本風庭園」とブーゲンブリア・ソテツなど南国情緒あふれる「奄美風庭園」が観る者を南の島へ誘います。 大島紬の製造工場や「都喜エ門」ブランドを展示する美術館を見ることができます。 また、草木染体験や「大島紬製品」「奄美特産品」の販売を行っているほか、レストラン「花ん華」では奄美大島の郷土料理である「鶏飯」を食べることができます。 都喜ヱ門は「紬一つをわが命とぞする」を人生哲学として、七十有余年を大島紬と共に歩みました。本場大島紬の伝統技法をベースにしながらも新しい図柄・技法を求め、より忠実に表現するための絣や染色技法を開発し時代を先取りする作品創りに打ち込んでいました。1973年には『都喜ヱ門』ブランドを展開し、多くの方々に愛されてきました。
1994年には「百寿」が海を渡り、英国立ヴィクトリア博物館に収蔵され美術作品として世界的に評価されることとなり、海外はもとより国内でも高い評価を受け、数々の有識者がご来園くださりました。 糸を糸巻きにかけていく工程です。
トリキリアゲ
ハジキ
かつての琉球列島で女性の手に施されていた刺青 ハジチ 針突 について現代では人形、絵画、マンガ、ゲームなどでは再現されることがない、かつての民族習慣である針衝 針突(はじち ハジチ ハヅキ はりとつ)についてまとめました。
滅亡した琉球
blog更新。「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 kousyou.cc/archives/11106
同じく滅びた習慣である琉球諸島のハジチ
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沖縄に古くから伝わるしきたりについて。第18回は成人儀礼の一つ「ハジチ」にまつわるしきたりです。
ハジチ彫りを生業とする針突師(ハジチャー)が居て、各地を廻り、「首里那覇では今、菱形模様が流行っている」などと、情報を提供してハジチ商売をしていたようだ。 ハジチセーク(針突き職人、ハジチャーとも)とよばれる専門の女性があたったという。 始めて7歳前後の少女の中指と無名指とに豆大の點を黥し,人妻となり出産前後又は24〜5歳に至りて手背に黥するのを通例 繊維工業学会誌 鎌倉芳太郎著「沖縄文化の遺宝」 この写真によって、人々がこの個人的な装飾の方法に頼った度合いに関していくらか見当がつきます。日本政府はこの風習を禁止しましたが、かつてこの習慣が広く行われていた時代には、違った島あるいは違った社会階層から来た女性は、手や腕に彫り込まれた模様によってただちに区別することができたのです。 那覇市歴史博物館(那覇市久茂地1、TEL 098-869-5266)の企画展示コーナーで8月15日より、平成19年度新収蔵品展「比嘉清眞写真展〜ハジチのある風景〜」が開かれている。
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