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奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。江戸時代には江戸と陸奥国さらには蝦夷間の物流が増加しており、白河はその中継地点として賑わい、奥州街道沿線では下野国宇都宮に次ぐ人口を擁するなど繁盛した。
白河以北江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、江戸中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道・八戸自動車道が通っている。
史跡岩手県岩手郡岩手町から二戸郡一戸町に至る街道跡の7区間、延長8.86kmが、「盛岡市の北方に位置するかつての一戸宿周辺には、浪打峠をはじめ往時の姿をとどめる街道跡、一里塚が良好に残っており、近世の交通の歴史を知る上で貴重である」として、国の史跡「奥州街道」に指定されている。
東北には、街道を通じて今も生き生きとした風景があります日本人のふるさと東北 そして東北の街道沿いは 歴史と文化の宝庫 「とうほくの街道」は 東北地方の街道を通じて 地域づくりを展開する団体を応援します ※このホームページは「とうほく街道会議」および「みやぎ街道交流会 ... 奥州街道 - Wikipedia奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸 日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国 宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。 とうほく街道会議「とうほく街道会議」は、東北地方を街道で結び、東北の歴史、文化、風土を活用した地域づくりに貢献することを目的 ... とうほく街道会議:〒980-0802 仙台市青葉区二日町13-17 TEL.080-3322-1966 FAX.022-262-0379 東北地方の風景街道 - 国土交通省 東北地方整備局東北|航路を検索|日本の船旅のことなら、一般社団法人日本旅客船協会www.jships.or.jp/route_detail.php?lang=ja&mapID... - キャッシュ
フェリー・旅客船. 遊覧船. 函館. 苫小牧. 大間. 苫小牧東. 仏ヶ浦. 佐井. 脇野沢. 蟹田. 浅虫. 青森. 青森県. 八戸. 十和田湖. 津軽・下北半島. 秋田県. 詳細図. 大平湖. 北山崎. 男鹿半島. 岩手県. 田沢湖. 宮古. 秋田. 釜石. 飛島. 大船渡. 酒田. 新潟・敦賀. 志津川湾 . www.jlc-ferry.jp/kouro.html - キャッシュ
首都圏は東京から徳島経由北九州と茨城県大洗から北海道に向けた2航路、名古屋 からは仙台経由苫小牧東までの1航路、大阪・神戸 ... 海上輸送は、東北地方太平洋沖 地震において、被災地へ支援物質を運ぶ交通手段として重要な役割を担ってきました。 wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/kj/kj-sub16.html - キャッシュ
航路, 事業者名, 電話・ファックス. 距離・所要時間. 八戸⇔苫小牧 242km 7時間, 川崎 近海汽船(株) 八戸支店, TEL 050-3821-1478. FAX 0178-28-1988. 函館⇔大間 40km 1時間30分, 津軽海峡フェリー
『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。
おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である[1]。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って[1]、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。
「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本とともに発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である 採荼庵 ( さいとあん ) を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、船に乗って千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となった[1]。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている[* 1]。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ[1]。 ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「 閑 ( しずか ) さや 岩にしみ入る 蝉の 聲 ( こえ ) 」の句を残す[1]。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟 ( きさかた ) に到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した[1]。
ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ[1]。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を歩いて渡り、美濃国の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠んで終わっている[1]。
白河の関4月20日 白河
多賀城5月4日 壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。
松島5月9日 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)
平泉5月13日 藤原3代の跡を訪ねて:
「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。
光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂は見ていないとされる。 |
福島県で復興と歴史
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第21回衆議院議員総選挙
概説1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会、立憲養正会などを除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した政治家たちによって翼賛議員同盟が結成され、太平洋戦争(大東亜戦争)下での軍部の方針を追認する翼賛体制を支える機能を果たした。
1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第二次近衛内閣によってとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあった[2]が、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。
そこで内務省のいわゆる「革新官僚」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。
1942年2月23日には元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。
推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、更に軍部や大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合(例、鈴木文治、浅沼稲次郎)や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%(1930年の濱口内閣の総選挙の投票率には0.2ポイント及ばず)という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8%を獲得。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35%近い得票を集めた。推薦候補が全員当選した県は、岩手、群馬、埼玉、石川、長野、滋賀、鳥取、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島の12県だった。一方、推薦候補が定数の半数未満しか当選できなかった選挙区は青森2区・兵庫5区・香川1区(いずれも定数3人中1人当選)の3選挙区あった。
非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。
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葛西大崎一揆 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/葛西大崎一揆 - キャッシュ
葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)は、天正18年(1590年)に発生した、豊臣秀吉の 奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子 に対する反乱である。 目次. [非表示]. 1 背景; 2 経過. 2.1 一揆発生(天正18年) ...
しかし、天正18年(1590年)7月26日、葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかったことを理由に秀吉に領地を没収され、葛西・大崎両氏の旧領13郡[注釈 2](胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生・牡鹿・栗原・遠田・志田・玉造・加美)には新たに木村吉清が封じられた。吉清は葛西氏の居城・寺池城に拠り、子の清久を大崎氏の居城・名生城に配置して領国経営を開始したが、その統治手法は旧葛西・大崎家臣団らの強い反発を買うものであった。浅野長吉が仕置を終えて去った直後の10月初旬、木村領の加美郡米泉(現:加美町米泉)で伝馬役をめぐる紛争が起こった。これは正規の伝馬役に対する公然の抵抗として起こされたもので、参加者は100名におよんだと推測されており、一揆の前兆と見られている[1]。 秀吉は政宗に葛西・大崎13郡30万石を政宗に与えたが、その替わりに本来の所領12郡余72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)44万石を没収して氏郷に与えた。これにより政宗の所領は19郡余58万石となった。
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三閉伊一揆(さんへいいっき)とは、弘化 4年(1847年)および嘉永 6年(1853年)に南部 藩で起きた百姓一揆である。三閉伊通一揆とも呼ばれる。 同藩は .... 三陸浜街道(岩手 県「いわての文化情報大事典」); ^ 『東北ふしぎ探訪』(伊藤孝博著、無明舎出版、2007 年); ^ 「岩手県史...
plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201010100000/ - キャッシュ
藩政時代の仙台領の百姓一揆のあらましは次の通り。 (1)寛永6年 八島下野直訴 伊具 郡耕野、川張、大蔵の3村は政宗が関ヶ原合戦の時、上杉方に属した白石城を攻撃した 際に参加した野武士の居住した村で、村民は素年貢で永代御蔵入 ... plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200801070000/ - キャッシュ
カテゴリ:東北. 三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、 農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。 盛岡藩は領内を33の「 通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、 ... bushoojapan.com > HOME > その日、歴史が動いた - キャッシュ
2017年6月19日 - 本日はもう少し規模が小さいながらに、当時の情勢がうかがえる東北の戦のお話です。 天正十八年(1590年)11月24日は、葛西・大崎一揆で、佐沼城の木村吉清・清久親子 が救出された日です。 何やら馴染みのない地名や名前かもしれ ... |
東北大学総合学術博物館Museum of Natural History, Tohoku University 施設情報 専門分野 管理運営 開館 所在地 位置 公式サイト 概説博物館と称しているが、他大学のような博物館専用の建物は設置されておらず、あくまでも研究機関としてのみ機能しているのが現状である[1]。博物館発足以降、現在に至るまで、事務室および常設展示は、既存の理学部自然史標本館に間借りしている状態である。このため、常設展示は自然史や地理等の部門に限られており、それ以外の分野についてはWebデータベース、紀要・ニュースレター、不定期に催される特別展示で公開されている。常設展示についても、専用の建物がないため公開内容に限界があり、同時期に設置された他の国立大学(東京大学、京都大学をはじめとする旧帝国大学など)と比べると非常に小規模である。公式ホームページでは、将来、専用の建物が建設された後の展示計画(博物館計画)についての構想が公開されている[2]。
東北大学には前身である東北帝国大学創立以来の学術研究の過程で得られた、標本、考古学・歴史資料、地図、発明品など総数約242万点に上る学術資料が保管されている。 これら資料は学内の各組織でそれぞれ保管されてきたが、これを一括して集中的に管理すること、研究・教育活動に役立てること、一般に公開し社会に還元することを目的に、1998年東北大学総合学術博物館が発足した。しかし予算の都合上、他大学のように集中管理することは実現せず、これまで通り収蔵品については学内の各組織で保管しているのが現状である。
東北大学総合学術博物館www.museum.tohoku.ac.jp/ - キャッシュ
東北大学創立以来、蓄積されてきた学術資料標本を管理し、研究成果を社会に広く伝えるための機関.
www.museum.tohoku.ac.jp/visitor_info/index.htm - キャッシュ
所在地・TEL/FAX: 東北大学総合学術博物館〒980-8578 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉6-3. TEL/FAX:022-795-6767; 開館日時: 午前10:00から午後4:00まで 土曜日・日曜日・祝日も開館します; 休館日: 毎週月曜日 (月曜日が祝日の場合は祝日明けが ...
www.museum.tohoku.ac.jp/exhibition_info/index.htm - キャッシュ
展示案内. 総合学術博物館の常設展示は理学部自然史標本館にて行なっています。 また、各種の展示企画を東北大学内や仙台市内の施設などで開催しています。 それぞれの企画により会場が異なりますのでご注意ください。
www.museum.tohoku.ac.jp/about/staff/index.htm - キャッシュ
助教, 黒柳 あずみ, 総合学術博物館. 専門職員, 齋藤 拓, 総合学術博物館(理学部). 事務補佐員, 鹿納 千賀子, 総合学術博物館. 事務補佐員, 岡部 玲子, 総合学術博物館. 事務補佐員, 遠藤 賀津子, 総合学術博物館. 事務補佐員, 高玉 久美子, 総合学術博物館.
www.sentabi.jp/guidebook/attractions/view/20 - キャッシュ
生命の進化をたどる化石や、大地を構成する岩石鉱物、東アジアの古地図など、自然史の中でも地球科学分野に限った標本類を約1200点展示しています。収蔵室(非公開)には60万点の標本があります。 大学の中の数少ない公開施設のひとつです。東北 ...
www.walkerplus.com > ... > 東北のスポット > 宮城県のスポット - キャッシュ
宮城県の博物館・資料館、東北大学理学部自然史標本館(東北大学総合学術博物館) のスポット情報です。東北大学青葉山北キャンパスにある地球科学系の博物館。日本全国はもとより、世界中から科学者が集めてきた化石、岩石、鉱物などの学術標本 ...
trip-s.world/museum-tohoku - キャッシュ
仙台の観光スポットというと仙台城址や宮城県美術館が代表的ですが、意外な場所に面白い施設があります。それが東北大学の敷地内にある「東北大学総合学術博物館」 です。ここは学生じゃない一般の方でも入れる穴場の観光スポットです ...
www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298249-d1009... - キャッシュ
評価(評価: 4.5)評価:4.5-10件のレビュー
東北大学理学部自然史標本館(仙台市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(10件)、 写真(18枚)、地図をチェック!東北大学理学部自然史 ... 大学の博物館だと無料が多いのですが、ここは150円をとられますが十分価値があります。おすすめです。帰りには ...
ja.wikipedia.org/wiki/東北大学総合学術博物館 - キャッシュ
東北大学総合学術博物館(とうほくだいがくそうごうがくじゅつはくぶつかん)は、国立大学法人東北大学学術資源研究公開センターに附属する研究機関(大学博物館)である。 目次. [非表示]. 1 概説; 2 沿革; 3 主な収蔵品; 4 アクセス; 5 脚注; 6 関連項目; 7 公式 ... |
津波堆積物概要津波の成因によって、地震によるもの、火山爆発によるもの、隕石落下によるものがある[3]。寄せ波によって陸上や沿岸湖沼に運び上げられたもののほかに、引き波によって海底に引き込まれたものも津波堆積物ということができる[4]。しかし、台風などの気象現象による高波や洪水の痕跡との識別は難しい[5]。
堆積物研究研究の歴史は浅く、日本では1983年日本海中部地震を契機として始まり、1980年代後半以降、多くの研究者によって精力的な研究が行われ知見が蓄積されている。堆積物の解析とは、年代特定と津波規模の特定が主目的となり、年代を特定するために古生物学、考古学の視点、堆積物形成のプロセスを理解するためには地質学、地形学、地球物理学、津波工学、堆積学、流体力学などからの複合的視点が必要である。
過去数千年間の歴史に残っていない津波を知るためには、近代的地震観測が行われた以降の地震や[6]、発生直後の調査によってどの様な堆積が行われたのかを知ることが重要で[7][8]、陸上での発掘やジオスライサーによる堆積地層サンプルの採集が行われる。
津波による堆積物と判断するための根拠は大きく分け下記の5つであるが、全ての堆積物に適用できる基準は存在していない[9]。
その結果、蓄積されたデータを多角的に利用したシミュレーションを行い、発生した津波の規模(波高、流速、遡上範囲)から地震の規模を明らかにすることで、減災・防災技術に役立てる事が可能になる。
解析を行う上での課題[5]とは、
年代判定年代判定は堆積物に埋められた陸上植物の遺骸[11]や堆積物中に内包するサンゴや貝類などの生物遺骸を利用した年代推定が行われる[12]。また、海岸に打ち上げられた津波石も利用される事があり、岩石が満潮線よりも高い位置に移動した場合には表面に付着しているサンゴや貝類などの活動が停止するため、放射性炭素年代測定を行う事で津波(離水)が生じた年代を求める事が可能になる[13][14]。
「津波石」も参照
日本における研究日本における研究は、産業技術総合研究所の海溝型地震履歴研究グループ[15]を中心に大学の研究室[16][17]などで行われ数々の知見が蓄積されている[18]。更に、2014年度には文部科学省の『災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画』[19][20]により津波浸水履歴情報の作成が進められている。
特に南海トラフ沿いの地震による津波被害が1000年以上も前から歴史文献に残るため[21]、原子力発電所立地地域の周辺や太平洋側[22]の調査が行われてきた。しかし、2011年の東北地方太平洋沖地震以前の調査では南海トラフ沿い太平洋側地域に調査地点が偏り、福島県や宮城県で日本海溝沿い巨大地震(貞観地震)の痕跡を2011年以前に見つけていながら津波減災に生かすことができなかったことを教訓として、日本国内の沿岸各地で発掘調査が行われている[23]。
更に、従来はほとんど調査が行われていなかった日本海側でも日本海地震・津波調査プロジェクト[24]等により、(2014年現在)調査が進行中である。一方、千島海溝沿いの地震は松前藩入植以前の歴史記録は極めて少なく且つアイヌ口承では発生年代を特定できなかったが、多くの研究者による火山層序、堆積物の精力的な研究の結果、津波痕跡から十勝沖から千島沖までが連動する「500年間隔地震」が発生していた可能性を指摘するに至った[17]。
調査地海底で発生する大規模な地震により生じた堆積物調査が行われる地点は、普段は潮汐や高波の影響を受けず、生物や人間による攪乱の影響を受けにくい海岸段丘面上、後背湿地(溢れた氾濫水が河川への排水を妨げられ長期間滞水する)な湖沼などが選定される。原子力発電所の立地や再稼働に伴う調査[25][26][27]、水田や住宅地などでは工事に伴い実施されることがある。しかし、内湾である大阪湾、伊勢湾、東京湾では、人間による攪乱により堆積物の破壊が進んでいるため行われない[28]。
事例多くの津波堆積物研究によって過去の巨大津波の存在が明らかにされてきた[49]。
事例多くの津波堆積物研究によって過去の巨大津波の存在が明らかにされてきた[49]。
日本国内
日本国外
外部リンク
津波堆積物データベース:地域の情報(福島県) - 地質情報データベースgbank.gsj.jp/tsunami_deposit_db/area/.../index.html - キャッシュ
地域の情報. 福島県. 【福島県相馬市,南相馬市,富岡町で行った調査結果は,2012年 にGeophysical Research Lettersに掲載されました(Sawai et al., 2012).以下に記述 する地域の情報は,Sawai et al. (2012)の 解釈に基づくものです.】 【いわき市 ...
イベント堆積物(あるいは,イベント層)(いべんとたいせきぶつ あるいは いべんとそう)突発的な出来事により,数千,数百,数十年という地質学的な時間感覚からすると瞬時に形成される堆積物を「イベント堆積物」「イベントを表す地層」などといいます.イベント堆積物には,津波堆積物のほか,洪水堆積物,高潮堆積物,高波堆積物などがあります.
地震の規模(じしん の きぼ)地震の規模を表す指標には,エネルギー量を示すマグニチュードを用いる.マグニチュードは「M」と標記され,値が1大きくなるとエネルギーは約31.6倍になり,2大きくなると1000倍となる.Mの算定方法には幾つかある.例えば,地震学ではモーメントマグニチュード(Mw)が用いられることが多いが,気象庁は気象庁マグニチュード(Mj)を用いている.同じ地震のマグニチュードでも,複数の異なる値が発表されることがある.これは,地震の規模を1つの指標で表すことができないということを意味している.
西暦869年貞観地震(せいれき869ねん じょうがんじしん)平安時代に編さんされた歴史書「日本三代実録」に記された,貞観十一年五月二十六日(西暦869年7月9日)に陸奥国(現在の宮城県中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域を含む範囲)で起こったとされる地震.多賀城を大きな津波が襲ったことも記されている.産総研による研究結果では,地震の規模を示すMw(モーメント マグニチュード)は少なくとも8.4であった.
堆積物のはぎ取り(たいせきぶつのはぎとり) 地層に残された構造などを浮き上がらせ,それを詳しく観察する方法として行う作業.また,地層の保管方法としても利用される作業.地質調査の過程で,現地だけでなく,後日に研究室などで地層を詳細に観察できるようにするため,特別な接着剤を使用して露出した地層の表面やボーリングなどで採取した堆積物の表面を“はぎ取る”ことがある.粗い砂や石の地層には接着剤が多く染み込んで厚く堆積物が付着するが,逆に細かい泥質層には接着剤が染み込みにくいために堆積物が薄くしか付着しない.このコントラストによって,堆積物がたまった過程でできた様々な構造を明瞭に観察することができる.
津波供養碑(つなみくようひ)津波で亡くなった人を弔う目的で建立された碑のこと.いつ,何により(津波により),何名亡くなった,などという情報が石碑に彫刻されていることが多い.広義には,単に「津波がここまで到達した」という内容のものも含まれる.供養碑の位置や内容を調べることで,その地域に過去どのような津波が来襲したか把握できる場合がある.主として太平洋沿岸に点在し,とくに千葉県房総半島沿岸や徳島県〜高知県沿岸に多く見られる.
テフラ火山の噴火に伴って噴出する火山灰,軽石,スコリア,火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称.広い範囲に降下したテフラは広域テフラと呼ばれ,大規模な噴火により,日本全国で見つかっている火山灰もある. テフラは短い期間に広い範囲に降下するため,離れた地域での地層の対比や年代の推測に利用される.
ピットとトレンチ(ぴっと と とれんち)野外で地層を観察するためにやや広く掘削する穴のことを,形状に応じてピットやトレンチと呼ぶ.ピット(pit)とは穴を,トレンチ(trench)とは溝を意味する言葉で,通常のボーリングで掘る穴よりも広く(幅1m程度),浅い(深さ1-2m程度)ものをピットと呼び,そのピットを拡大して溝状に細長く掘ったものをトレンチと呼ぶことが多い.ボーリングよりも広い範囲で地層の状態が観察できるため,地層がたまった時の状況などを推定する上で適している.トレンチの掘削による調査は,津波堆積物だけでなく,内陸の活断層を調査する際によく行われる.
浜堤と堤間湿地(ひんてい と ていかんしっち)海浜において暴浪時などに波によって打ち上げられた砂礫が,海岸線に沿って堤状に堆積してできた高まりの地形.その高さは数10cmから数mまである.海岸から内陸に向かって複数の浜堤が何列も発達したものを浜堤列と呼び,浜堤と浜堤との間の低まりには堤間湿地と呼ばれる湿地が形成される.津波や暴風によって形成された堆積物は,堤間湿地の堆積物(泥炭や泥)に残されていることが多い.
放射性炭素(14C)年代(ほうしゃせいたんそ(しーじゅうよん[または,じゅうよんしー])ねんだい)放射性炭素14原子(14C)が約5,730年で半減する性質を利用し,堆積物の年代を推定する方法.大気中には一定量の14Cが含まれており,生物が体内に取り込んだ14Cは,大気と同じ割合に維持されている.しかし生物が死ぬと,14Cが取り込まれなくなるため,その時点で体内にあった14Cは時間の経過とともに放射性崩壊によって徐々に減っていく.この減少率を利用し,測定物(例えば,炭素を多く含む植物の化石など)に含まれる14Cの割合から,その地層の堆積した時期を知ることができる.なおこの方法は半減期の長さから,約6万年前から約400年前までの年代測定に有効とされている.
歴史地震(れきしじしん)現代の地震は様々な機器で観測されているが,そのような機器観測が行われるようになる前に発生した地震で,特に古文書などに記録されている地震のこと.古文書には,当時起きた地震に伴う揺れや津波の浸水など様々な現象が記されていることがあり,それらはいつ,どこで,どのような地震や津波が起きたのかを知る鍵となる.しかし通常,江戸時代以前の歴史記録では,地震や津波などに関する記録の数が限られており,具体的に地震を発生させた震源を推定することが難しい.津波を引き起こすような海溝型地震の場合,その震源や波源の範囲を知るために,津波の浸水範囲,地盤の上下動など様々な記録を収集し,総合的に判断する必要がある.
暦年較正年代(れきねんこうせいねんだい)放射性炭素(14C)年代の測定において半減期に基づいて算出された値を暦の年代に補正する方法のこと.14C年代測定では,まず大気中の14C濃度について,過去のいつの時代も常に一定であったと仮定して,そこからの減少率で算出する.しかし過去の大気中の14C濃度は,自然放射能の増減の影響を受けて時代毎に変化しており,実際の年代(暦年代)と放射性炭素年代の間に若干のずれが生じる.このため実際の年代を知るために,14C年代を暦年代に補正するプログラムがあり,これによって得られた年代を,暦年較正年代と呼ぶ. 68 3.3 津波堆積物調査にもとづく地震発生履歴に関する研究 (1) 業務 ...(Adobe PDF) - htmlで見るwww.jishin.go.jp/main/chousakenkyuu/miyagi.../h21_3_3.pdf
平成 17 年度と同様の津波堆積物調査を宮古湾及び三陸海岸の南部地区(大船渡・陸. 前高田・気仙沼地区など)を対象に範囲を広げ ... 福島県常磐海岸北部地域(松川浦 地区・浪江町請戸地区及びいわき地区)で、ジオスライ. サーなどで採取した地層のうち 、 ... unit.aist.go.jp/ievg/report/jishin/.../jogan_tsunami.html - キャッシュ
まず,陸域の調査によって宮城県から福島県の海岸付近の平野に広く津波堆積物が 分布することを,詳細な調査によって明らかにしました(図2).その結果に基づいて, 津波堆積物が分布する範囲まで浸水するような断層モデル(図3)をシミュレーションで 構築 ... www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2008s/0/2008s.../ja/
その結果,粘土・シルト層中に狭在する3枚の砂層を検出したが,粒度組成から判断して ,明瞭な津波堆積物と断定するには至らず,貞観津波堆積物を特定できなかったので, 古河沼周辺で再度の調査が必要である。 3.常磐海岸福島県浪江地区の調査結果 ... |


