歴史先史福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。年代は約2万2000年前の AT よりも下から出土していることから、後期旧石器時代前半に属する。少しくだって約1万5000年前の塩坪遺跡(喜多方市高郷町)から熱を受けた139個のこぶし大の石がまとまって発見された。
この時代はまだ土器がなく、焼石は食材を直接加熱するのに使用されたのであろう[4]。
縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳(郡山市、前方後方墳、全長約 83m)、会津大塚山古墳(会津若松市、前方後円墳、114m 、4世紀後半、東北最古級、割竹形木棺検出、三角縁神獣鏡出土)、亀ヶ森・鎮守森古墳(会津坂下町、前方後円墳、127m)などの大型の古墳が集積する。
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、すでに大和朝廷の影響下にあったことが窺える。古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、代わって県南地方で盛んに古墳が作られた。県南地方の前方後方墳は隣接する那須地方(那須国造)から連続しており、南那須地方から県南地方一帯は古墳街道ともいうべき古墳集積地帯ともなっている。
古代5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
また、関東や近畿地方などから、盛んに開拓のための移民も行われている。その後、国は評(こおり)と呼び名が代わり、陸奥国に再編された。また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評(しのぶごおり)も「北端」ではなくなった。
現福島県域は石城国または石背国に属することとなり、陸奥国の領域ではなくなった。
分置後も蝦夷との戦いが続き、東北全体(陸奥・出羽)で戦う必要性起こってきたので、724年(神亀元年)までには石城国と石背国は再び陸奥国に合併された。これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されている。
平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得たが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで支配するまでになった。
平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏があった。石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住した。岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも言われる。
鎌倉開府から戦国時代まで県域においては信夫佐藤氏が信夫荘(信夫郡の西北、松川以北)に押し込められると、鎌倉による論功行賞で福島県内は伊達氏、相馬氏、二階堂氏、蘆名氏、畠山氏、結城氏など、多数の関東武士団に細分化された。南北朝の動乱においては結城氏の一族である白河結城氏が台頭し、白河結城氏を主力とする南朝方が大いに優勢となったが、しばらくすると相馬氏など北朝方が盛り返し、白河結城氏など多くの諸氏は奥州管領や鎌倉公方の支配を受けるようになる。
戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国を持つ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっているが、伊達氏は伊達稙宗が南奥羽で外征や婚姻外交を繰り返し南奥羽のほとんど大名が勢力下に入るが天文の乱を起こし衰退したり、白河結城氏が衰退し代わって岩城氏が勢力を盛り返すなど、栄枯盛衰は止むことはなく、隣接する常陸国佐竹氏や越後国上杉氏の影響も受けるようになるが、最終的には蘆名氏や相馬氏、二本松氏などを圧倒した伊達氏の伊達政宗が短期間ではあるが、福島県域の浜通りを除く大半を領有することになる。
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仙台の大和朝廷北進
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日本列島の旧石器時代日本の歴史
日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
概要日本列島の形成日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
しかしながら、従来の学説では氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきた[1]とされてきたが、近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。
また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言[2] も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。
一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。
動物相日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。
最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。 ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れて約1万7000年前に絶滅している[3]。長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の骨製品がまとまって発見されている。
植生氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期とそれ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がっていった。暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
一方、姶良Tn火山灰 (AT) は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めた。
このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼした。たとえば、それまでは全国均一的な石器文化を保持していたものが、地域的な特色のある石器文化圏、つまり、西日本と東日本というような石器文化圏成立に影響したとの可能性を考えることができる。
日本列島において氷期から間氷期への急激な変化は、更新世から完新世への変化も急激であり、気候変化[† 3][3]、海面変化、植生を含めた生態系の変化も急激であった。後期旧石器時代はコナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった[4]。
石器前・中期旧石器の発掘日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、岩手県の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。これらの論争は「丹生論争」[† 4][5]、「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。
旧石器捏造事件:1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に「発見」された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされ、日本の旧石器時代は約70万年前まで遡るとされた。
しかし、2000年11月に、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、今のところ、前・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されている。
2003年12月に、長崎県平戸市の入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」という報道がなされたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良Tn火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。2009年現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。
長野県飯田市で竹佐中原遺跡が発掘調査された。この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新しいことが分かった。
4か所から出土した石器は2グループに分けることができ、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初め頃)、もう一つは3万数千年前〜5万年前のものであること推測されている。つまり中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる時期の遺跡であると考えられている。[6]
後期旧石器の特徴後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。遺跡は北海道から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている[要出典]。これらの遺跡で出土する遺物のほとんどは石器であり、遺構は礫群以外が出土することは極めてまれである(他に陥し穴などがある)。石器ばかりが発見されるのは有機質の材料で作られた道具が土中で分解されて残りにくいためであり、遺構についてもその可能性が高い[要出典]。ただし遺構はおそらく大変簡素な作りだったと推測されている[要出典]。
後期旧石器時代は前半と後半とに区分されており、層位的には約29,000年前に日本列島を覆う広い範囲に降り注いだ姶良Tn火山灰の包含層が目安にされている。石器の区分としては以下のような特徴がある。
前半期前葉(約35,000〜33,000年前)では、台形様石器(または台形石器)と局部磨製石斧が代表的で、列島に広く分布する。地域色はまだ明瞭ではなかったようであるが、少し遅れて縦に長い剥片を加工して尖らせた石槍と推測される石器(「ナイフ形石器」と呼ばれている石器の一部)が東日本を中心に見られ、大枠で西日本との違いが出始めた[要出典]。
前半期後葉(〜約29,000年前)になると石刃技法が確立して、石槍の発達が著しくなる。この傾向もやはり東日本で顕著であった[要出典]。他方、近畿地方から瀬戸内地方ではそうした石刃技法よりも横長剥片剥離技術が採用されることが多く、後半期になるとその発展型である「瀬戸内技法」を生み出すことになる。前半期後葉には台形様石器と局部磨製石斧が大変少ない[要出典]。
後半期の年代は約29,000〜15,000年前にあたり、大枠としては「ナイフ形石器」が盛んに製作された時期(〜17,000年前)と、その製作が終了して細石刃が盛んに製作された時期(〜15,000年前)との2時期に分けられる。
ただし北海道は樺太および沿海州と陸続き(古樺太-北海道半島)であったため大陸の動向と密接に連動し、古本州島(陸続きになっていた本州・四国・九州と属島)とは異なる推移を辿り、細石刃を含む石器群が約23,000年前には製作・使用された[要出典]。
後半期は、そのほぼ最初から細かな狭い地域性が確立し、北海道を除くと、東北、関東、中部、近畿、瀬戸内、九州などの区分ができる。それぞれの地域では石器の様式性が著しく発達し、例えば東北の「東山型」、新潟から山形の「杉久保型」、近畿の「国府型」といった各種「ナイフ形石器」(この名称には各方面から異論が提出されている[要出典])や、瀬戸内から九州の「角錐状石器」、九州の「剥片尖頭器」、「台形石器」などと呼ばれる、いずれも槍ないしナイフとして使用されたと推定される大型の石器にその特徴があらわれた。これらの石器を製作するための材料である石材もまた、その地域ごとに異なる産地のものが利用される傾向が強かった[要出典]。
クサビ形は中国東北部から当時は地続きの北海道を通じて東日本を中心に広がり、角錐状や船形は中国南部から直接九州に伝わってきたらしいことが明らかになったという[7]。
こうした石器と石材の変化は当時の人々の移動生活や生業活動の変化と関係している。前半期には、それまで広く分散していた滞在・居住場所が河川流域へ集中するようになり、その数自体も急増したことから、人口が増加したのではないかと推定されている[要出典]。
また、そうした移動・居住の変化を促す背景として、気候や動植物生態系の変化が関係していたとも考えられている[要出典]。29,000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化が進行し、約25,000年前を前後する頃には最終氷期最寒冷期を迎えたからである[要出典]。
後半期の終末には、北海道にだいぶ遅れて古本州島にも細石刃石器群が展開する。それは北海道から東北日本にかけてと中部・関東以南から九州にかけての西日本にかけての大きく2地域に分かれた地域色がある[要出典]。前者は、「湧別技法」[8]といわれ、「荒屋型」といわれる特徴的な彫刻刀形石器(彫器ともいう)を伴う。後者は「矢出川技法」[9]もしれないといわれている。こちらは彫刻刀形石器を伴わない[10][11]。
関東・中部の特殊性「ナイフ形石器」と細石刃がほぼ列島内全域に展開したのに対し、尖頭器石器群は東日本でも特に中部地域・関東地域において地域的な発展を見せる。尖頭器とは、魚の鱗のような小さな剝片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10センチ以下が多い。中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。
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縄文時代日本の歴史
縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
概要縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
名称「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している[1]。
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遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」 といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットや エスキモーが雪中行動する際に着
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2015/07/24 に公開
土偶と言えば歴史の教科書などにも写真が掲載されており、だいたい想像のつく方が多いのではないでしょうか。 しかし、この土偶は何のために、どのように、そしてどれだけ作られたのかはあまり知られていません。 今回も、遺された土偶から彼らの生活や精神を考えていきます。 ja.wikipedia.org/wiki/遮光器土偶 - キャッシュ 遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」 といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットや エスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることから...
概要遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。
また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。
主な作例www.globe.sh/guzzi/joumon01/joumon-3.htm - キャッシュ
拡大して見よう! 正面の操縦席らしき所に人物?らしき者が座っているように見える。 その後ろにもフタを持ち上げるような格好の者(?)が見える。 すると・・・・・・. この「遮光 器土偶」は. 巨大ロボットと言う事か? いや、間違いないだろう。 これは、まぎれも無い. gakkenmu.jp/archive/4564/ - キャッシュ
では、この遮光器土偶の異様な姿は何を表したものなのだろうか? 一般的には、「女性 を表したもの」とされ、乳房、腹、臀部、太ももが強調されたような意匠から、生殖を介 した繁殖や豊穣を祈願したものとされている。、あた、亀ヶ岡土偶の ... |
渟足柵
渟足柵 (沼垂城) (新潟県) 城郭構造 築城主 築城年 廃城年
概要645年の乙巳の変後に即位した孝徳天皇が、大化2年(646年)正月1日に改新の詔を示し、大化の改新という体制変革が起こった。すると、 大化3年(647年)には渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)が造られて柵戸も置かれ[※ 1][2][3]、翌大化4年(648年)には磐舟柵(新潟県村上市岩船辺り)が設置され蝦夷に備えた[※ 2][2][3]。なお、史料にはないが、この時期の太平洋側では陸奥国に郡山遺跡として知られる名称不明の城柵が造られた。
斉明天皇4年(658年)7月4日に、渟足柵造の大伴稲積が、蝦夷の朝献に際して小乙下の冠位を授けられた。このときには、位置不明の都岐沙羅柵造とともに、多数の蝦夷が位と物を授かった。蝦夷が招かれたのは阿倍比羅夫の北航の成果であり、渟足柵造がそこで何らかの役割を果たしたことが示唆される。
文献史料にみる渟足柵の跡はここで途切れるが、1990年に、三島郡和島村(現・長岡市)の八幡林遺跡で、「沼垂城」「養老」という字が書かれた木簡が出土した。そこで、養老年間(717年 - 723年)に渟足柵が沼垂城の名で機能していたと推定できる。
立地渟足柵は平安時代の『倭名類聚抄』に見える沼垂郡沼垂郷にあったと考えられる。そして近世以降現在に至るまで沼垂という地名がある。地形的には信濃川と阿賀野川の合流点付近の海岸平野で、水運が重要だった当時の高志(越)の実情に合った立地である。
それでも単純に現在の沼垂とすることはできないのは、沼垂町が河道変化の影響で近世の初めに4度も場所を変えたことが知られているからである。知られるかぎり最古の場所は現在の新潟県新潟市東区の王瀬で、ここが有力候補ではある[5]。だが中世にも同じ理由で移転した可能性があり、古代の沼垂の正確な位置は不明である。王瀬ではボーリング調査によって古代の水田跡が見つかっているが、それ以上の調査は及んでいない[6]。
蝦夷征討古墳時代蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある[1]。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[1]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である[1]。
称徳以前7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。
太平洋側では、654年(白雉5年)に陸奥国が設置されたが、724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。
日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)には越後国に出羽郡が設置され、712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。
この間、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。
三十八年戦争宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが[2]、光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。
また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある[3]。
第1期桃生城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、宝亀9年(778年)までには反乱は一旦収束したと考えられている。
第2期「宝亀の乱」も参照
正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある[2]。藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。
第3期延暦8年(789年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。(詳細は巣伏の戦いを参照)。
延暦13年(794年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。
延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の指導者アテルイは生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対しアテルイとモレが河内国で処刑されたことが記録されている。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。
第4期弘仁2年(811年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている[1]。
その後以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った夷俘、俘囚の反乱が記録されるのみとなったが、津軽や渡島の住民は依然蝦夷と呼ばれた。夷俘、俘囚の反乱の主なものとしては、元慶の乱、天慶の乱などがある。前九年の役、後三年の役については、文献上征討対象である安倍氏、清原氏を俘囚とするものがあるものの、近年では両者とも官位を有する下級貴族階級であったとする説が有力になってきている[5]。また、蝦夷の征討は延久蝦夷合戦を最後に行われなくなり、このころから奥州藤原氏の時代までに本州北端までが日本の国制下に入ったと考えられている。
年表
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