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日向の国は日本の起り

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日向灘地震

   
赤線南海トラフ。日向灘地震の震源域はその西端部分から西側の海域一帯である。
日向灘地震の位置(九州内)
1662年
1662年
1968年
1968年
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
日向灘地震
17世紀以降に発生したM7.6前後の日向灘地震の震央をRed pog.svg、1923年以降に発生したM7.0-7.2の日向灘地震の震央をBlue pog.svgで示した。

  日向灘地震(ひゅうがなだじしん)とは、南海トラフの西端に位置する日向灘で起こる海溝型地震である。日向地震(ひゅうがじしん)とも呼称される。


概要

宮崎県および大分県の沖合にあたる日向灘の海域では、過去より繰り返し大地震が発生する事が知られている。日本政府の地震調査研究推進本部 地震調査委員会の報告(2004年)によると、日向灘地震は規模により2つに分けられ、マグニチュード (M) 7.6前後のものと、M7.0 - 7.2程度のものがある。いずれも陸側のプレート(ユーラシアプレート[1])とフィリピン海プレートの境界面で起こる低角逆断層(衝上断層)型のプレート間地震(海溝型地震)で、震源域は具体的に特定できないものの深さは10 - 40km付近[2]

九州東岸の宮崎県串間市付近から大分県佐伯市付近までは海岸線が北北東-南南西方向に伸び、その南東側の沖には南海トラフの海溝軸[3]がほぼ平行に伸びている。地震調査委員会の報告に用いられた評価領域は、先述の海岸線を北東に愛媛県宇和島市付近まで延長した線の付近を陸側の外縁とし、そこから海溝軸までの間の幅およそ100 - 150kmを領域としている。海溝軸に近い幅50km程度は領域から除かれている[4]

今後日向灘地震が発生した場合、周辺の沿岸各地に地震の揺れによる被害のほか、震源域が浅い場合には津波による被害も生じることが予想されている。特に、九州では宮崎県や大分県、四国では愛媛県や高知県太平洋側などで津波の被害が予想されている。

発生間隔

M7.6前後のものは約200年間隔で発生すると推定され、17世紀以降は1662年 (M7.6)と1968年 (M7.5)の2回発生しており、2回とも津波を引き起こし人的被害を出している。また、M7.0 - 7.2程度のものは約20 - 27年間隔で発生すると推定され、1923年以降は1931年 (M7.1)、1941年 (M7.2)、1961年 (M7.0)の3回、ないし1984年 (M7.1)を含めて4回(1984年の地震は従来プレート間地震とされていたが、プレート内地震であり日向灘地震に含まれないという指摘もある。)発生しており、いずれも人的被害を出している[5]

2種類の地震を合わせると十数年から数十年に一度の割合で発生している。調査により判明している過去最大の地震は、1662年のM7.6の地震であり、日向灘の領域単独でM8以上となる巨大地震が発生した記録はない[6]。しかし、震源域が東に隣接する南海地震などと同時発生してM8以上の連動型巨大地震となったことがあるという見方もある。
例えば、東海・東南海・南海連動型地震であった1707年宝永地震は日向灘地震とも連動した可能性が指摘されている。そして、将来もそのような連動型巨大地震が発生する恐れがあり、対策を取ろうとする動きがある。特に2011年東北地方太平洋沖地震東日本大震災)以降、そのような動きが強くなっている[7]

地震の発生確率

日向灘   プレート間地震 7.6前後 10%程度 7.6前後 10%程度(ひとまわり小さいもの) プレート間地震 7.1前後 70 - 80% 7.1前後 70 - 80%
発生確率等の評価(地震調査委員会)
領域様式2004年2月27日時点[8]2013年1月1日時点[9]
規模 (M)30年以内の発生確率規模 (M)30年以内の発生確率
日向灘の既知の大地震は震源域が毎回同一ではないため、発生確率評価においては評価領域内のどこかの領域でランダムに発生するとみなして算出された[10]

東北地方太平洋沖地震後の連動型地震への関心の高まりなどを受けて、日向灘地震を含めた南海トラフにおける地震の評価見直しが行われており、2013年春に公表される予定と発表されている[9]

被害地震年表

[表示]節内の全座標を示した地図 - OSM
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日向灘付近を震央とする地震のうち、死者が報告されている被害地震、M7.0以上の地震、および最大震度5(5弱)以上の地震を示す。
  • 出典:特に注記がないものは、1922年以前は日本地震学会[11]、1923年以降は気象庁[12]による。注記しているが、震源要素の一部は宇津[13]、被害については日本地震学会、地震調査委員会(2004年)も参考とした。
  • 地震発生年月日の欄の月日は全てグレゴリオ暦(新暦)。
地震発生年月日 震央地名 座標 深さ
(km) 規模
(M) 最大
震度 概要
1498年(明応7年)7月9日豊後水道北緯33度00分 東経132度15分 / 北緯33.0度 東経132.25度 / 33.0; 132.25 (1498 豊後水道)7.0 - 7.5山崩れ、地割れ、泥噴出などがあり、民家の被害が多数、死者も多数出た。同日の畿内の地震や、上海における津波記録から、南海地震との説もある[14][13]日向灘地震 (1498年)も参照。
1662年(寛文2年)10月31日日向灘北緯31度42分 東経132度00分 / 北緯31.7度 東経132.0度 / 31.7; 132.0 (1662 日向灘)7.6日向大隅で死傷者多数。城や家屋の破損、山崩れが発生した。津波があり、沿岸7か村の田畑計8,500石が水没するなどした。(羽鳥、1985年)によれば津波の高さは宮崎で4 - 5mと推定され、日向灘では最大級のものであったとされる。外所地震(とんところじしん)とも呼ばれる[15]
1769年(明和6年)8月29日(豊後水道)北緯33度00分 東経132度06分 / 北緯33度 東経132.1度 / 33; 132.1 (1769 (豊後水道))7.8前後(異説あり)日向・豊後肥後で被害があった。延岡城大分城での被害、寺社や町屋の損壊などが報告されている。田の水没や水難による死者が出た。被害をもとに、宮崎で震度6程度、津波が最大2 - 2.5m、地震の規模はM7.8前後などと推定されている。しかし、(松浦 ほか、2003年)などは2日後の水害による被害と混同されている恐れから規模の小さいプレート内地震であった可能性を指摘しており、(地震調査委員会、2004年)はこれを根拠に日向灘地震とはみなしていない[15]
1899年(明治39年)11月25日日向灘北緯31度54分 東経132度00分 / 北緯31.9度 東経132.0度 / 31.9; 132.0 (1899 日向灘)浅い[13]7.1宮崎県・大分県で、家屋の破損や土蔵の倒壊などの被害があった。
1899年(明治39年)11月25日日向灘北緯32度42分 東経132度18分 / 北緯32.7度 東経132.3度 / 32.7; 132.3 (1899 日向灘)浅い[13]6.9同上
1909年(明治42年)11月10日(宮崎県西部)北緯32度18分 東経131度06分 / 北緯32.3度 東経131.1度 / 32.3; 131.1 (1909 (宮崎県西部))約1507.6プレート内で起こるやや深発地震であり、日向灘地震ではない。大分県・宮崎県・熊本県鹿児島県・高知県・広島県岡山県で被害があり、宮崎市付近で被害が大きかった。
1923年(昭和4年)7月13日(九州地方南東沖)北緯30度54分 東経132度00分 / 北緯30.9度 東経132.0度 / 30.9; 132.0 (1923 (九州地方南東沖))447.14宮崎市、鹿児島市で震度4を観測。震央は地震調査委員会の評価領域の南端付近。震央を種子島付近(南西諸島近海地震の領域)とする文献もある。死者・負傷者なし[13]
1929年(昭和4年)5月22日日向灘北緯31度45分 東経131度53分 / 北緯31.75度 東経131.89度 / 31.75; 131.89 (1929 日向灘)596.95宮崎市、人吉市で震度5を観測。津波があったが被害記録はない[13]
1931年(昭和6年)11月2日日向灘北緯31度47分 東経132度00分 / 北緯31.79度 東経132.00度 / 31.79; 132.00 (1931 日向灘)287.15宮崎市、都城市などで震度5を観測。死者1名、負傷者29名[13]。宮崎県・鹿児島県で家屋全壊がそれぞれ4棟・1棟、室戸岬で85cmの津波[11]
1939年(昭和13年)3月20日日向灘北緯32度05分 東経131度45分 / 北緯32.08度 東経131.75度 / 32.08; 131.75 (1939 日向灘)576.54宮崎市、熊本市などで震度4を観測。津波があった。死者1名、負傷者1名[13]
1941年(昭和16年)11月19日日向灘北緯32度07分 東経132度08分 / 北緯32.12度 東経132.13度 / 32.12; 132.13 (1941 日向灘)337.25宮崎市、延岡市などで震度5を観測。死者2名、負傷者18名[13]。家屋全壊は27棟で、大分県・宮崎県・熊本県で被害があり、九州・四国で最大波高1mの津波があった[11]
1961年(昭和36年)2月27日日向灘北緯31度39分 東経131度53分 / 北緯31.65度 東経131.89度 / 31.65; 131.89 (1961 日向灘)377.05宮崎市、日南市、都城市で震度5を観測。死者2名、負傷者7名[13]。家屋全壊3棟、九州から中部にかけて最大50cmの津波[11]
1968年(昭和43年)4月1日日向灘北緯32度17分 東経132度32分 / 北緯32.28度 東経132.53度 / 32.28; 132.53 (1968 日向灘)307.55延岡市、宿毛市で震度5を観測。死者1名、負傷者15名(53名とする資料もある)[13]。住家全壊1棟、半壊2棟、道路損壊18件などで、高知県・愛媛県で被害が多かった[11]。四国で到達高3m以上の津波を観測し、床上浸水56棟、船舶の被害も発生した[16]
1970年(昭和45年)7月26日日向灘北緯32度04分 東経132度02分 / 北緯32.07度 東経132.03度 / 32.07; 132.03 (1970 日向灘)106.7

転載元転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難




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地域地盤嵩上げシステムの導入を
 
我が国の資産は平野部に集中しており、その多くは標高の低いところに存在する。
 
古より、川は氾濫を繰り返し、土砂を運び平野を造ってきた。
 
現在の河川は砂防が設備が整い堤内地に土砂を供給することは皆無となった。
 
一たび、水害が起きれば我が国の資産の多くは被害を受ける。そこで、地域地盤嵩上げシステムを提唱する。
 
地域地盤嵩上げシステムとは、堤防より低い土地を堤防の高さまで、システム的に嵩上げすることである。
 
嵩上げられた将来を見越した、グラウンドデザインを描き、高架橋などの社会資本はあらかじめ高さを嵩上げしておく。
 
具体的には、家を建て替える時には、宅地地盤高さを一定高さ嵩上の義務付け等の施策を戦略的かつ総合的に展開する。
 
 
あなたのお家の周辺の堤防が家の敷地の高さより高ければ要注意です。家を建て替える時には、地盤を少し上げましょう!!
 

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目標とする高さ
大阪市の例
大阪市内OP+5.2m(大阪市内河川堤防天端高さ)ただし、安治川水門・尻無川水門・木津川水門より下流はOP+6.6m(堤防高さ)とする。
 
 大阪中心部の、海抜1m以下の範囲を塗りつぶし。
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomish/osk_study/fld1m-s.jpg
これが、今世紀中にそうなると言われている海面上昇で(堤防がなければ)浸水する範囲である。河内湖が「復活」している。
近年の埋め立て地のほうが、海岸に近い陸部よりも標高が高くて、一種のリーフ状の地形をなしているのは、東京も同じだ。
 
 
10.以下は、比較のために同じスケールにした地形図。大阪と、
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomish/osk_study/topo-s.jpg
 
11.東京。
http://members.jcom.home.ne.jp/kiyomish/osk_study/topo_tokyo-s.jpg
 
 
http://www.gesui.metro.tokyo.jp/onega/in0002/hyousi.jpg
パンフレットの内容は、上記画面をクリックしてください。




 

転載元転載元: 地震・雷・火事・津波・高潮・親爺・事故・災難





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www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/art/159400.html - キャッシュ
2018年5月24日 - 日本独自の形である前方後円墳という古墳が造られた時代。 ここ宮崎市でも生目古墳 群など多くの古墳が造られました。 宮崎平野には繁栄した当時に近い景観が今も保たれており、古墳の姿形が損なわれることなく、 古墳の周りに建築物が ...




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生目古墳群(いきめこふんぐん)は、宮崎県宮崎市跡江地区にある古墳群


概要

宮崎平野を流れる大淀川右岸に位置する標高25メートルほどの台地上に広がる、古墳時代前期から中期の古墳群である。3世紀後半ないし4世紀前半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群とされる。
1943年(昭和18年)9月8日に前方後円墳7基、円墳36基の計43基の古墳が国の史跡に指定された。その後の調査により計51基の古墳、地下式横穴墓36基、土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認され、昭和18年指定時のうち1基が古墳ではないことも明らかになった。

主な古墳

3号墳。手前は前方部。後円部は奥右方
復元された5号墳。手前には復元された地下式横穴墓
1号墳
全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。一説に当古墳群最古といわれる。畿内箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形と言われ、その関係に注目されているが調査は遅れており、見学は困難である。
3号墳
全長143メートル、高さ12.7メートルの前方後円墳。当古墳群最大であり、九州でも西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさである。前方部から頂上まで歩いて登ることができる。
5号墳
全長57メートル、高さ4.4メートルの前方後円墳。葺石があり、特異な形をした円筒埴輪を出土する。公園整備にあたり、葺石を復元した形で公開されている。これは本来あった葺石の上に表土をかぶせ、その上に敷き詰めたものである[1]。葺石の配置に当たっては実験が何度も行われた。
7号墳
長さ46メートル、高さ3.9メートルの前方後円墳。5世紀後半のもので、造り出しを持ち、多くの土器を出土する。特殊な形式の須恵器祭祀専用に作られたものと考えられている。

地下式横穴墓

九州地方南部にのみ見られる地下式横穴墓は当古墳群でも確認されている。特に7号墳には古墳内部へ深く掘った地下式横穴墓が発見されている。

生目古墳群史跡公園

史跡指定後しばらく調査が進まなかったが、1990年代後半から発掘調査、史跡の追加指定を経て、2008年(平成20年)4月1日、史跡公園として開園した。園内には前方後円墳8基、円墳25基や地下式横穴墓のほか、駐車場トイレ展望台あずまやがある。

サイト内リンク:
概要 - 主な古墳 - 生目古墳群史跡公園 - 生目の杜遊古館
kofun.info/kofunlist/45 - キャッシュ
宮崎古墳です。古墳マップでは、古墳の地図・形・大きさなどのデータを詳しくまとめています。




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mppf.or.jp/saito/ - キャッシュ
県立青島亜熱帯植物園; 宮崎県運動公園; 萩の台公園; 阿波岐原森林公園; みやざき臨海公園; 国際海浜エントランスプラザ; 宮崎市久峰運動公園; 佐土原町域体育施設; 市民の森; みたま園; 青島参道南広場. 西都市観光協会; みやざき観光情報 旬ナビ.



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www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/ - キャッシュ
宮崎平野最古(5世紀初め)の地下式横穴墓が21号墳で発見された。(2011年5月5日記載) 2005年3月、古墳時代の前方後円墳の下から古代南九州特有の墓「地下式横穴墓」が見つかった。 宮崎市教委によると、同古墳群は宮崎平野南部を中心に4−6世紀 ...





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style.nikkei.com/.../DGXNASJC2701L_T00C14A7000... - キャッシュ
墳丘表面が石で覆われた生目古墳群の5号墳。手前は南九州独特の墓「地下式横穴墓」の竪坑(いずれも復元)=宮崎市. 陵墓参考地として立ち入り禁止となっている九州最大の前方後円墳・女狭穂塚に近接して造られた西都原古墳群の171 ...




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www.tripadvisor.jp > ... > 日本 > 九州地方 > 宮崎県 > 宮崎 > 宮崎市 観光 - キャッシュ
評価(評価: 3.5)評価:3.5-6件のレビュー
生目古墳群史跡公園(宮崎市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(6件)、写真(5枚) 、地図をチェック!生目古墳群史跡公園は宮崎市で49位(97件中)の観光名所です。






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www.jalan.net > ... > 宮崎の観光 > 宮崎・青島・日南の観光 > 宮崎市の観光 - キャッシュ
評価(評価: 3.8)評価:3.8-6件のレビュー
宮崎市青島/その他神社・神宮・寺院. 王道. 4.3 (779件). 海岸を神社にむけた道と岩が印象的です。 お年寄りや子供連れはトゥクトゥクトローリーと言う案...by セトケンさん. ひでちゃんさんの道の駅 フェニックスへの投稿写真1. 生目古墳群からの目安距離



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www.kanko-miyazaki.jp/smartphone/shinwa/kofun.html - キャッシュ
大正初期のわが国初めての大規模な発掘調査は、考古学上特筆すべきことで、現在は特別史跡公園として保護、管理されている。史跡内の「西都原考古博物館」はロマン溢れる古代日向の情報発信の拠点として、多くの見学客を迎え入れている。また、宮崎 を ...

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転載元転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

椎葉村に行こう!


椎葉村 - Wikipedia

椎葉村章 村旗・村章、共に1973年(昭和48年)11月5日制定 国 日本 地方 九州地方 都道府県 宮崎県 郡 東臼杵郡 団体コード 45430-3 法人番号 5000020454303 面積 537.29 km² 総人口 2,704人 (推計人口 …

椎葉村観光協会

www.shiibakanko.jp
椎葉村の自然や伝統文化の紹介、レジャースポットやお買い物情報など、便利で椎葉がもっと楽しくなる情報が満載の観光パンフレットをご紹介します。椎葉村へおこしの際には是非ご活用ください! ≫

椎葉村 : 「日本で最も美しい村」連合

utsukushii-mura.jp/shiiba
椎葉村は宮崎県の北西、九州中央山地に位置し、人口 は3,130人、 537.35 という広大な面積を有し、その約96%が森林で占められる緑豊かな村です。四季の移ろいの中で見せる様々な自然の美し






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www.shiibakanko.jp > ホーム > 観る - キャッシュ
民俗芸能の専門博物館. 椎葉民俗芸能博物館は、椎葉村の民俗文化を保存・伝承する 施設として、平成9年4月にオープンしました。地上4階、地下1階で昔の村の民家風造り をしています。 椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説など ...
椎葉民俗芸能博物館に関する地図
  • 椎葉民俗芸能博物館の画像
  • 椎葉民俗芸能博物館の画像
  • 椎葉民俗芸能博物館の画像
住所: 電話:
宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良1822-4
0982-68-7033
椎葉民俗芸能博物館では、椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説などを写真や民具、祭礼具等の展示を通して紹介しています。また、広く九州・アジアの民俗芸能を取り上げる専門博物館として...
www.jalan.net > ... > 椎葉村(東臼杵郡)の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4.3)評価:4.3-3件のレビュー
椎葉民俗芸能博物館の観光情報 営業期間:公開:9:00〜17:00、交通アクセス:(1) 日向市駅から車で90分。椎葉民俗芸能博物館周辺情報も充実しています。宮崎の観光 情報ならじゃらんnet 椎葉の自然と歴史,四季の暮らしと祈り,民俗芸能など.
www.vill.shiiba.miyazaki.jp/education/.../museum.php - キャッシュ
椎葉民俗芸能博物館. 施設の概要. 本館は本村の春の的射、秋の臼太鼓、冬の神楽 などの民俗芸能、ひえつき節をはじめとする多種多様な民俗音楽を、椎葉の四季折々の 暮らしぶりと共に紹介しています。臼太鼓踊の展示室では、九州各県及びアジアの太鼓  ...



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民俗学発祥の地




那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎

弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。

椎葉村下福良には、宗久が植えたものと伝えられている八村杉があり、国の天然記念物に指定されている。 椎葉という地名は、宗久が陣小屋を椎の葉で覆ったことに由来して名付けられたと言われる。 五ヶ瀬町鞍岡という地名は、宗久が行軍の際、山が険しく馬を乗り捨てたことから「鞍置」と呼ばれていたのが、転じて鞍岡と名付けられたと言われる。 椎葉村下福良には、江戸期に庄屋を務めた那須家住宅(国の重要文化財)がある。この住宅は鶴富屋敷と通称されるが、現存する建物は江戸時代後期、文政6年(1823年)頃の建立である[1]。 民謡「ひえつき節」では、宗久と鶴富姫の伝説を題材として「那須の大八鶴富置いて椎葉立つときゃ目に涙」などと歌われるが、この歌詞は元々あった労働歌に昭和15年(1940年)になってから加えられたものである。 現在でも椎葉村には「那須」姓が多い。




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歴史

伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するという。

戦国時代には那須氏が支配しており、1559年(永禄2年)、獺野原の戦いでは東直政の求めに応じ肥後に出兵。大河内城主那須兵部大輔武宗、小崎城主那須下野武晴、向山城主那須左兵衛武綱ら130余人が敗死した[2]1577年(天正5年)には伊東崩れにより日向を追われた伊東義祐が星原城に立ち寄り、城主奈須右近将監祐貞に伊東氏累代の系図と旗を預けた。1585年(天正13年)、小崎城主那須左近将監は島津氏より鷹の儀で扶持を与えられた。また、島津氏から本領安堵された那須領に対し阿蘇惟光が行った違乱に対し、島津氏が使者を送り停止させた。翌1586年(天正14年)、向山城主那須弾正忠は肥後八代に島津義弘の陣中見舞いに訪れ、鎧甲を献上した。

1601年(慶長6年)、椎葉山三人衆(小崎城主那須左近将監、向山城主那須弾正忠、大河内城主那須紀伊)は徳川家康より鷹巣山管理を認める朱印状を与えられた。

1616年(元和2年)、三人衆と他の那須氏(十二人衆)との間で対立が激化。十二人衆は向山城を攻め、弾正忠の子久太郎、左近将監の孫専千代が討たれた。1618年(元和4年)、専千代の父主膳は十二人衆を幕府に訴えた。

1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。両名は人吉藩の兵を動員し住民1000人を捕らえ、うち140人を殺害。20人が自害。訴えを起こした主膳は高崎藩に預けられた(椎葉山騒動)。事件後、椎葉は天領となり阿蘇大宮司に支配が委ねられたが、1656年(明暦2年)、阿蘇氏は椎葉山管理を辞退。以降、人吉藩の預かり地となった。

人吉藩では代官を派遣するなどの直接統治はせず、向山、大河内、松尾、下福良の四名の庄屋と大河内、古枝尾の二名の横目に山中支配を担わせた。

江戸期の人口は1774年(安永3年)時点で4483人、うち郷士が3302人を占めている。石高は1753年(宝暦3年)時点で48石であったが、後に焼畑の本高入により1828年(文政11年)時点では590石と大幅に増加している。

日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。

柳田國男(1951年):宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。

『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。
ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。
また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。



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中瀬淳(なかせすなお)1864(元治元)年〜1950(昭和25)年


●「後狩詞記」の共著者
 柳田国男の『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』は、日本民俗学の黎明(れいめい)をつげた一著といえるだろう。本書には「日向奈須の山村において、今も行われる猪狩りの故実」とサブタイトルを付す。
 1908(明治41)年7月10日、郡会議事堂(現宮崎市)において農政経済講和を済ませた柳田は、旅館神田橋に宿泊。翌日、椎葉村へ出発、富高−神門を経て13日に村長中瀬淳に迎えられた。当夜は松尾の松岡宅に泊まり、中瀬の案内で18日までの“椎葉検証”の旅が始まる。柳田の本来の目的は、焼畑跡地に自生する山茶、シイタケやコンニャク栽培の可能性を探る調査であった。
 柳田のもう1つの関心事は、中瀬の話す“猪狩り”であった。15日に大河内椎葉徳蔵宅で『狩之巻』を見た柳田は、いよいよ猪狩りに心を寄せる。帰京した柳田は数度にわたり手紙を送って、中瀬はこれにこたえる。農政学者と山村の村長との心からなる交流であった。
 椎葉村を訪れた翌年、柳田は『後狩詞記』50部を自費出版、本書は「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」と付録の「狩之巻」から成る。柳田は序文に「記事の全部はことごとく椎葉村の村長中瀬淳氏から口または筆によって直接に伝えられたものである」と書いている。さらに彼は「今日ではこれが日本民俗学の出発点のようにいわれている」(「故郷七十年」)とも自負している。
 中瀬は25歳で村の助役となり、1893(明治26)年村長に選任され、柳田が訪れたときは4期目、村の状況に精通していた。『椎葉村是』をまとめあげるなど、村の発展に大いに貢献した。1998(平成10)年7月、柳田の椎葉村採訪以来90周年を迎えた。(山口 保明)
メモ
◎民俗学発祥芝地碑
 『柳田国男全集』の編集に尽力した高藤武馬は、椎葉村を訪れ日隈惣七(ひぐまそうしち)(22代村長)に面談、碑の建立を懇望した。高藤は「耳川の源流椎葉の里に“後狩詞記”と刻んだ日本民俗学発祥の記念碑を建ててほしいのである。それがそこにあるというだけで椎葉は忘れ得ぬゆかしい土地となるだろう」(『旅つづれ』)と記している。
 待望の碑は、1985(昭和60)年8月開催の“民俗の原点・椎葉シンポジウム”を機に除幕。碑正面に民俗学発祥之地と刻み、柳田の「椎葉村を懐ふ」と題する歌。
 立ちかへり又みゝ川のみなかみに
   いほりせん日は夢ならでいつ
 の1首を紹介。大河内の竹ノ枝尾の旧中瀬宅前庭に設置、両人の友情を伝えている。1993(平成5)年には“柳田国男ゆかりサミット”を開催。さらに椎葉民俗芸能博物館がオープン。柳田来遊以来、90年を越えて山村文化発信の基点となっている。



近現代

椎葉村役場旧庁舎(2008年撮影、大字下福良1747番地20)

転載元転載元: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興

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