村山等安村山 等安(むらやま とうあん、生年不詳 - 元和5年10月26日(1619年12月1日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物。長崎で代官を務めた。文献によっては「東安」「東庵」「等庵」とも記されている。
生涯 天正年間(1573 - 1592年)に長崎に流れ着き、金屋町に住んだ。才知に長け、弁舌さわやかで、ポルトガル語にも幾らか通じていたという。長崎町衆の1人として朱印船貿易商となって、豪商の末次興善(末次平蔵の父)たちの助けを受け、当時珍重された呂宋壺(ルソン島で焼かれた陶器。茶器として珍重された)の取引で資産を得た[3]。また、イエズス会士により洗礼を受けアントン(Antaô、または Antonio アントニオ)と称した。
文禄元年(1592年)、豊臣氏による文禄の役の際に、名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預かる長崎代官になりたいと願い、許可された[4]。さらに秀吉は、彼の洗礼名アントンを元にした「等安」という名を与え、以後この名に改めるように命じた。秀吉の死後も、外町(御免地を「内町」と呼び、それ以外の地を「外町」と称した)を村山が代官として支配していた。
慶長9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見で徳川家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された[5]。その後、呂宋壺の他に生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、薩摩藩や佐賀藩に融資するほどの金を蓄えた。また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。
一方で、アビラ・ヒロンの『日本王国記』によると、等安は多くの妾を持ち、そのため妻子と不和に陥り、また多くの人々を殺害した。その際は江戸幕府長崎奉行・長谷川藤広のとりなしで、かろうじて息子らと和解したという。
しかし、長崎の指導者層である頭人のグループや新興商人らと衝突することとなった。元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キリシタンを擁護したことと、徳川氏が敵対していた大坂の豊臣氏と通じたという嫌疑で、元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後、長崎の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。
大坂方と通じた嫌疑とは、大坂夏の陣の時、等安が息子の1人に浪人を添えて大坂城に石火矢や玉薬を運び込ませたこと、またキリシタンでドミニコ会系の司祭であった三男フランシスコ等安が流罪になったのを、密かに長崎港外の高鉾島で下船させ、豊臣方として加勢に送りこんだというものであった。これを平蔵政直に伝えたのは、等安の料理人の三九郎という者であった。三九郎は自分の娘が等安に手打ちにされたのを恨み、政直に告げたのだという[6]。
村山等安に関するQ&A5件
●南蛮に妨害された等安の台湾遠征
実はこの村山等安の台湾遠征の計画にもっとも敏感に危機感を持って反応したのは、かねてより生糸の転売で大きな利益を上げていたポルトガル商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。
ここにきてイエズス会と敵対する長崎の等安勢力が台湾へ遠征するという情報は、彼らに少なからぬ驚きをもって受け取られた。 もしもこの等安による遠征計画が成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになるわけで、彼らがこれまで独占してきた仲介貿易事業も宣教活動も一気に破たんすることになる。 これに対して南蛮勢力は結束して直ちに遠征の妨害工作に出た。 実はこうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非でも阻止するように、彼らには教会上層部から特別に指示が出されていた。 それは日本の為政者である将軍が、明(中国)との直接の交易を強く望んでいることを察知していたからであった。 1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスーン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」p173ー175 : 高瀬弘一郎著 「台湾を獲得して中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害するよう命令」(1610年、文書13)より引用。 「現在日本全土を統治している国王(=徳川秀忠)は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている、と。其処は泉州の沿岸の近くである。彼の意図は、それ〔フォルモザ島〕を獲得して其処とシナとの間の貿易を手に入れることである。(中略)日本人たちにそれ〔狙い〕を遂げることなど出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼する。」引用終わり 南蛮がこうした対抗策に出る直前の慶長十三年(1608年)、家康は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見していた。 幕府はここで台湾で勢力を持つ高砂族との関係を改善して明国や東南アジアとの交易の際の中継となる拠点造りを強く望んだわけだが、いまだにそれは果たせないまま推移していた。 翌年の慶長十四年(1609年)、九州の大名有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すため渡海したが、台湾の原住民との交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。 これは、事前に講じた南蛮勢力側の妨害工作が成功した結果であった。 こうした中であらためて長崎代官・村山等安が、台湾遠征計画に名乗りを上げたわけである。 そのような建白書が、等安から幕府へ奉じられたのかも知れないところである。 幕府主導によってすべてここで台湾遠征の事業が考えられたとしても、それを実施すること自体大変な企てであることには違いはなかった。 http://denjiha55.blog.fc2.com/blog-entry-1011.html?sp
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台湾・台北の平和
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台湾原住民 台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾の先住民族の呼称。台湾政府(中華民国)の定める中華民国憲法により、「原住民族(拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」の存在が謳われている。現在、彼らは自らのことを台湾に昔から住んでいたという意味で、「原住民」と呼んでいる。漢語で「先住民」と表記すると、「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この表記は台湾では用いられていない。しかし日本語では「原住民」が差別的な意味合いを含むとして、積極的に「先住民」「先住民族」を使ったほうが良いとする考え方もあり、日本のマスコミでは基本的に「原住」を「先住」と言い換えている[要出典]。ただし「現地の呼称や少数民族の意見を尊重」するため、と注釈を付けたうえで「原住民(族)」を使う例もある[1]。
1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されたのを皮切りに、民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年(民国94年)1月「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしている。さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。2008年(民国97年)に、台湾政府はセデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。
2008年(民国97年)6月末高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占める。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高い。台湾では現在、平地原住民と山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。現在は台湾東部に多く住み、アミ族が最も多く、約18万人である。タイヤル族(泰雅族)とパイワン族(排湾族)の約8万人がこれに次ぐ。このほか、花蓮県に9万人(18.3%)、台東県に7万9,000人(16.1%)、屏東県に5万6,000人(11.4%)の原住民が住む[2]。
日本の台湾領有後、山地原住民は「生蕃」(後述)と呼ばれ、領台40年後の1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請において公式に高砂族(たかさごぞく)と改称された。太平洋戦争(大東亜戦争)中には高砂族を中心にした高砂義勇隊が結成され、日本軍の指揮下で戦った。
戦後、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも一部の人が弔慰金を受け取ったのみで、未払い賃金の問題がある。しかし日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない[3](高砂義勇隊を参照)。
歴史 台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた1603年(明:万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀頃に至って、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族は「熟番」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。
1871年(日:明治4年 / 清:同治10年)に宮古・八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害される事件が発生した(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に厳重に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事され放置されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。
1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は当初、清国の分類と名称を引き継いだ(ただし、番は蕃と書くことが多くなった)。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高山族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。領台から40年後の1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と公式に呼称を改めた(「戸口調査規定」)。1903年(明治36年)、大阪で博覧会が開かれた際、民族を紹介する学術人類館に台湾原住民の女性が展示された(人類館事件)。領有当初の1907年(明治40年)には、抗日事件の北埔事件が起きた。1930年(昭和5年)には霧社事件が起こり、多くの死傷者を出した。
日本統治が確立されると、台湾原住民も漢民族同様に台湾社会に組み込まれていった。学校では公用語として日本語が教えられ、言語が異なる部族間の共通語としても機能した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は高砂義勇隊として多くの若者が日本軍に志願し、南太平洋に広がる密林戦において大きな貢献を果たした。
第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は、先住民族のうち、日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めた。しかし1980年代以降の民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。
政府認定16民族と人口
これらの民族のうち、サキザヤ、クバラン、サオを除く10民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた(サキザヤは以前は認定されず、クバランとサオは一般的には平埔族に分類された)。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。
その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
一方、政府から未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
も歴史的には平埔族に分類されていた。
「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。
平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
台湾原住民族研究のなりたち 台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)らである。
彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。
台湾原住民族の言語 オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似[5]やアメリカインデアン語、南米先住民[6]の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている
大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。
『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。
その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。
部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられることもある。 台湾原住民の遺伝子[編集]台湾原住民族の風習入れ墨出草(首狩り) 台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。
漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。ただしこの習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アーミー・サイセットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤーミー族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。
出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。
日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。
1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年(大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押收によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを基にした説によると、1896年(明治29年)から1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
出草を巡る阿里山原住民に関する呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
出草の動機大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。
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オランダ統治時代 (台湾)台湾の歴史 参考 その他台湾に関する記事
背景 15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで大航海時代を迎え、インドへの新航路開拓が進み、ヨーロッパとアジアの距離は大幅に短縮された。台湾もこの国際情勢に組み込まれ、世界史の中に登場することとなった。
17世紀初頭、一部の日本人、漢人が台湾に進出した以外、ヨーロッパの重商主義国家も台湾の政治地勢に注目するようになった。当時アジアの海上はマカオを租借したポルトガル、フィリピンルソン島を拠点としたスペイン、インドネシアジャワ島を拠点としたオランダがそれぞれ海上の覇権を競っていたのである。
ポルトガルによる台湾発見 16世紀中期、ポルトガル船が台湾近海を通過した際、船員が偶然水平線に緑に覆われた島を発見した。船員はその美しさに思わず「Ilha Formosa(ポルトガル語で「美しい島」の意味) 」と叫んだことから、台湾に「フォルモサ」の名称が付けられ、ヨーロッパに台湾の存在を紹介されるようになった。
台湾発見に関しての年代については諸説あり、コッパー(Cooper)の1517年、王育徳の1541年前後、故宮博物院の1542年、頼建国の1544年、中村孝志の1557年と諸説存在した。しかし台湾の歴史学者曹永和により1554年にロポ=ホーメン(Lopo Homen)により作成された地図の中に、琉球諸島南方に「I. Fremosa」の委細があることから1554年以前であることが判明している。
オランダとスペインの抗争 1622年、オランダ東インド会社(The Dutch East India Company)はまず明の支配下にあった澎湖を占拠し、東アジアに於ける貿易拠点を築いた。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた(en:Dutch pacification campaign on Formosa)。両国の間で和議が成立し、明は澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人が台湾に移ることを認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓'(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城(Zeelandia)を築城し、台湾統治の中心とした。
オランダによる統治が開始されると、フィリピンルソン島を拠点としていたスペイン人が台湾進出を試み、1626年に台湾北部の鶏籠(現在の基隆)を占拠、社寮島(現在の和平島)にセント・サルバドール城(San Salvador)」を築城し、蛤仔難(現在の宜蘭)に進出、滬尾(現在の淡水)にセント・ドミンゴ城(Santo Domingo)を築城した。台湾南部を中心に活動していたオランダ東インド会社は日本への進出を試みたが、北部を占拠するスペインの勢力に妨害され進捗を見なかった。閉塞状態の打破のために1642年、オランダは鶏籠に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。
このようにしてオランダの植民地となった台湾であるが、1652年、郭懐一を領袖とする漢族系移民の大規模な反乱が発生した。反乱は間もなく鎮圧されたが、事件により1万人以上の漢族系住民が殺害されたとされている。
オランダによる台湾統治の歴史的意義 オランダによる統治に対する評価としては、第一に熱蘭遮城を中心とした植民地国家として、台湾で最初の系統的な政権が誕生したことがあげられる。オランダ統治機構はその後の台湾統治者に対しても少なからずの影響を与えている。
それ以外にはオランダ統治以前には顕著な活動を行なっていなかった漢人移民であるが、オランダ人は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。
オランダ統治以前にも漢人移民は存在したという見解もあるが、当時の漢人移民の活動地域は澎湖諸島に限定されており、また人数も数千人規模であった。これは明朝が海禁政策を実施し移民を禁じたこと、台湾部落社会での生産能力が乏しく大量の漢人移民を受け入れる社会的基盤が成立していなかった等の理由によるものである。
それ以外の影響としては、オランダ統治期間中、原住民に対し教化政策を採用し、ローマ字による言語教育が実施され、それは新港文書などの成果をもたらし、その影響はオランダ統治期間のみならず、19世紀の台湾の社会にまで影響を与えた。また経済的にはヨーロッパよりもたらされた重商主義により、本来自給自足的な農業、漁労中心の経済活動であった台湾に本格的な商業を発生させたという点があげられよう。 鄭成功
鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字: 鄭成功; 簡体字: 郑成功; ピン音: Zhèng Chénggōng; ウェード式: Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松[1]。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。
様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]。
人物・来歴誕生日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦に住み、浦人田川マツを娶り2子を生んだ。2人に、福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事。
台湾占拠
安平古堡の鄭成功像 鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている[1]。
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パイワン族パイワン、あるいはパイユァン(排湾族、パイワン語:Payuan、中国語拼音: Páiwān)は台湾南部に住むオーストロネシア語族に属する台湾原住民の一種族。広義にパイワン族と呼ばれるものには、北部より山地のルカイ族と北東部より平地のプユマ族とが含まれ、南部山地に分布するのが狭義のパイワン本族で、その北西部を除けば自らパイワンと称する。ここではルカイとプユマを含むパイワン族について記述していく。
パイワンの人々の石ぶきの屋根の家。1945年以前に日本の人類学者・森丑之助が撮影した、来義社と呼ばれる集落の長の家
人口1931年末には全体で8467戸、4万1746人、1942年末には9020戸、4万4627人。1931年の内訳人口はルカイ6339人、プユマ5289人、パイワン本族3万118人であった。2000年の調査ではパイワン本族は7万331人で、台湾原住民の 17.7%にあたり、台湾原住民で三番目に人口の多い民族集団である。言語はパイワン語や北京語で話している。
階級の区別高砂諸種族の多くでは見られない貴族系統と平民系統との区別がプユマ族で相当明確に現れ、ルカイ族とパイワン本族では一層それが目立つ。後二者ではヘビのヒャッポダはしばしば貴族系統と神秘的な関係があると信ぜられ、それを殺傷することは一般に禁忌である。貴族系統の内にも家格の相違があり、首長家はその最高位に立つ。一村一首長、数村一首長、一村数首長などの形があり、パイワン本族では長子相続、ルカイ族では長男相続が行われる。
農耕文化この両族は木彫にすぐれ、現在のと類似の文様が彼らに伝わる青銅器、主として剣柄にも見出されるのは注意されるべきだろう。また彼らがなお豊富に持つトンボ玉、いわゆる古代ガラス玉にはインドネシア方面、特にボルネオと共通性が認められる。
歌生蕃の歌謡研究者により蒐集された生蕃の歌の一例をここに示す。
パイワン族卑南社の護郷兵・凱旋の歌[1]
とひやあ びぬらぶらお ぴぬりやー ぐたいやんー ぴぬしがー ぐんがんさがぬ びーるの かいばがー ぬかんまの だだるぬ いくすの くやぬーす
(大意: 射撃の音は鈴の様で非常に面白かった 敵の方より来る臭気は心地よく思ったがその首を見ては悲しい思いをした)
祭祀收穫祭 (Masarut)毎年7月から10月の間に、各村によって行なわれる祭祀である。精霊に感謝し収穫を祝うものであり、パイワン族にとっての年度の区切れとなる。祭祀の内容は、祭師が収穫したアワを倉庫に運び、また来春の播種用のアワを選別し、収穫した農作物を食べる内容となっている。現在では娯楽活動へと転換しており、歌謡コンクールや、射弓試合などが行なわれ、ショー化している。
人神盟約祭 (Maleveq)パイワン族最大の祭典であり、五年祭とも称される。伝説ではパイワン族の祖先は神界に向かい女神に祭祀と農業を習うと同時に、五穀豊穣を祈ったものであり、また女神と一定の期間内にアワを焼き、降臨を請う事を盟約したという内容によって執り行われている。人神盟約祭は15日の長きにわたって執り行われ祭師の指示の下、部落の全男性が参加する。
六年祭(五年後祭)(Pusau tavuvu)人神盟約祭で降臨した神が5年後に神界に戻ったのち、一部の精霊がなおも地上に留まり、6年目に神界に戻るという伝承にしたがって執り行われる。
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