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更新日:2011年2月1日
京丹後市デジタルミュージアム京丹後市内の指定・登録文化財(史跡)http://www.city.kyotango.lg.jp/kyoiku/bunka/shiryokan/digitalmuseum/syuruibetuindex/images/map-siseki.jpg
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海の京都 丹後
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浦嶋太郎伝説のある島児神社 Legend of Urashima Taro
山陰海岸ジオパークの浅茂川海岸沿い、八丁浜の一番西の駐車場近くにある島児(しまこ)神社は、浦嶋太郎伝説の残る神社です。
日本昔話でも有名な、浦島太郎の伝説には、日本国内の様々な場所/海岸でその伝説が語り継がれています。日本書記、万葉集、丹後国風土記、お伽草子など、様々な浦島伝説が存在します。丹後国風土記に記されている浦島太郎は「水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)」となっています。 丹後半島では、浦嶋伝説を伝える神社が2つあり、この島児神社はその一つ。もう一つの神社は、伊根町の浦嶋神社です。浅茂川にあるこの島児神社はには、祠、嶋児と亀の石像があります。 島児神社の詳細は以下の観光スポット情報からどうぞ。 http://travel.nihonkai.com/spotdata/6... 付近の宿泊施設などは観光サイト「日本海トラベル」で24時間受付中です。 http://amino.nihonkai.com/ http://travel.nihonkai.com/ BGM:甘茶の音楽工房 http://amachamusic.chagasi.com/ 丹後国風土記
『丹後国風土記』(たんごのくにふどき)は、丹後国(今の京都府北部)の風土記。逸書であるため、内容は 『釋日本紀』 などでの引用によるしかない。風土記編纂が命じられたのが和銅6年(713年)であるため、原本は遅くとも8世紀中にはできていたと思われる。
数多くある風土記逸文の中でも比較的長文が残されており、最古の部類に入る浦島伝説、羽衣伝説の記述は万葉仮名書きの和歌が入っている点も含めて特筆すべきものである。他に、天橋立の伝承もある。(下に挙げる和歌は漢字仮名交じり文で記す)
浦島伝説
別の書『古事談』では、「淳和天皇御宇天長二年(825年)乙巳。丹後国与佐郡人水江浦島子。此年乗松船。到故郷」と記され、そのことから帰還まで300年程度経ったと推定される。出発時の雄略天皇の代がいつなのか確定しがたいが、他の浦島伝説での共通点も踏まえ現世では館での3年より遙かに長い時間が流れていたと伝えられることは確実なようである。
羽衣伝説 「比治真奈井 奈具社」という項目に記述がある。各地に伝わる羽衣伝説とは違い、物語の筋が一風変わったものになっている。
この里の比治山頂の麻奈井の湖(今は既に沼となったと書かれる)で、天女八人が水浴びしていたとき、和奈佐という老夫婦は一つの羽衣を隠し、帰れなかった天女を子にした。そのおかげで家は富む。しかし豊かになると「汝は吾が子ではない」と言い天女を追い出してしまう。天女は慟哭しつつそこを去る……
www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/381/013.html - キャッシュ
丹後国風土記. 013.jpg. □鈴鹿文庫.
丹後国風土記
浦島太郎とかぐや姫 〜丹後国風土記と竹取物語の語ること(Adobe PDF) - htmlで見るtenkyo.net/kaiho/pdf/2010_11/2010-11-07.pdf
浦島太郎とかぐや姫
〜丹後国風土記と竹取物語の語ること〜 作花一志(京都情報大学院大学) 1. はじめに 日本人が数百年間も慣れ親しんでいる昔話の中にも星は潜んでいます。ここでは浦島太郎とかぐや姫の抱えている謎に迫ってみまし ょう。昔話といわれている童話には庶民が本を読むようになった江戸時代に、書き直されているものが少なくありません。 2. 珍説浦島物語〜龍宮は宇宙の彼方に むかしむかし、浦島は 助けた亀につれ連れられて ・・・・(中略)・・・・ 中からぱっと白煙 たちまち太郎はお爺さん。 浦島太郎が助けた亀に乗って竜宮城に行き、乙姫様と楽しく暮らし、お土産に玉手箱をもらい、帰ってみたら知らない人ばかり、開いた玉手箱から出た煙でたちまち彼はお爺さんになってしまった・・・という童話は誰もが 知っていますね。この話の出典は『御伽草子』 という室町〜江戸時代にできた物語集です。 浦島太郎は『御伽草子』では、その後、鶴になり蓬莱の山へ飛び去ったと結び、後日、亀とともに神として祀られたことになっています。浦島伝説はずっと古くからあり、その原 型は私たちがなじんでいるものとかなり異な っています。それを物語る奈良時代の文書は、 なんと『万葉集』と『日本書紀』です。『万葉 集』では老いた彼はその場で死ぬことで終わ っています。また『日本書紀』では「雄略天 皇二十二年秋七月」という年が書かれていま すが、その記述は非常に短く、詳しくは別巻 (ことまき)でということで終わっています。 重要なのはその別巻(参考文献)である『丹 後国風土記』です。その原本は失われていま すが、逸文(後世の書物に引用された文章) として詳しく伝わっています。万葉仮名なの で不明な箇所(*の部分など)もありますが、 要点だけを現代文に訳してみます。 www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html - キャッシュ
まず最初に,京都府北部の丹後半島に伝わる物語を紹介しましょう。丹後半島にある 伊根町と網野町には,丹後国風土記にもとづいた浦島太郎の伝説が残っています。 そして,四国香川県の浦島太郎を紹介しましょう。その後で,愛知県,長野県などいくつ かの ... www.ten-f.com/urashimatarou.html - キャッシュ
浦島伝説と呼ばれる「お話し」の原典は『丹後国風土記』逸文だとされていますが、いつも の例に洩れず、その原本は失われており、今、風土記そのものを見ることは出来ません 。では、何故、風土記に浦島のお話しが掲載されているのが分かるのか、と言えば鎌倉 ... www.westjr.co.jp/company/info/issue/.../06.../feature03.html - キャッシュ
jyashin.net/evilshrine/gods/.../tsuchigumo_ancient_06.html - キャッシュ
丹後国風土記残欠」は、来歴のよく分からない文書で、五風土記や逸文などのように 学界から古風土記と認められているものではないが、古代の土蜘蛛について詳細に記し ているので取り上げた。ここに登場する土蜘蛛「陸耳御笠」自体は、古事記に丹波で 官軍 ... www.dai3gen.net/tango.htm - キャッシュ
丹後の風土記としては、岩波の日本古典文学大系の「風土記」に収録されている「逸文・ 丹後風土記」で「奈具社、天椅立、浦嶼子」の三条が載るものが有名です。 これとは ... 日本根子天津御代豊國成姫天皇』の御宇に、丹波国の五郡を割いて丹後国を作った。】 crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id... - キャッシュ
質問 (Question) 回答 (Answer) 回答プロセス (Answering process) 事前調査事項 (Preliminary research) NDC 参考資料 (Reference materials)
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吉河遺跡(敦賀市)は集落外に大規模な墓域を定め、方形周溝墓が築かれていて、集落跡と墓域があわせて発掘された代表的弥生時代の遺跡といえる。集落内の住居跡の規模に差があること、方形周溝墓と土壙墓が併存すること、これらの諸点から集落内に階層分化の進んだことが推測されよう。
弥生時代にはムラがつくられ、水稲耕作が生活の基盤となってきた。坂井郡の竹田川・兵庫川などの自然堤防上には、弥生時代に居住地がつくられ、その下部の低湿地に稲田が営まれたらしい。それを推測させる土器・石器を出土した弥生時代の遺跡が発掘されている。 加戸下屋敷遺跡(三国町)からは、銅鐸の鋳型の未製品や大量の玉作関係の製品・工具また工房跡が発掘された。稲作とともに農耕祭祀が生まれて祭器として銅鐸が用いられた。越前は銅鐸分布の日本海側の北限であって、県下ではいろいろな型式の銅鐸が幕末以来七口出土している。畿内・東海地方出土の銅鐸とを比較して、それらの地域とのかかわりが考察されよう。なお弥生時代前期の文化の東限は伊勢湾と丹後半島をつなぐ線といわれてきたが、遠賀川式土器・木製品の出土した丸山河床遺跡(小浜市)の発見によって、日本海側の東限は小浜湾にまで及んでいることが察知されて現在ではこれが東限とされている。 第一節 ふるさとのあけぼの
一 はじめての福井人 西下向遺跡
二 福井の縄文人の足跡
草創期の遺跡
丹後の先史時代
・旧石器遺跡未発見 ・1万年程前 有舌尖頭器発見 ・8千年前 (早期) 裏陰遺跡 押型文土器 ・6千年前 (前期) 松ヶ崎遺跡 貝殻文土器 魚類骨(ハタ・タイ・ヒラメ)・植物種子(栃・栗・胡桃・エゴマ・瓢箪) ・前期〜晩期(3千年間) 平遺跡 ・中期 約5千年前 平式土器(渦巻文などで加飾された土器) ・後期 (3〜4千年前) 浜詰遺跡 最盛期(4千年前) 竪穴住居跡 貝塚から海産貝(蜆・蛤・牡蠣・アサリ・鮑・サザエ) 魚骨(ボラ・フグ・鯉・黒鯛・スズキ・鮪) 獣骨(イルカ・鯨・猪・鹿・狸・猿) 丹後半島の歴史 ■
先史・縄文時代
丹後半島にも先史時代から人々が住み着いていたことは明らかであるが、確認されている遺跡としては縄文時代の草創期からである。 舞鶴湾の小さな入り江に「浦入(うらにゅう)遺跡」がある。入り江には 5000 年前の縄文海進でできた砂嘴が沖に伸びている。
砂嘴 の起点近くで、5300年前の丸木船が発見された。スギ材をくり貫いて作られており、全長8mと推測できる。近くからイカリと思われ る石と杭が見つかり、日本で最古の「船着き場」と話題を呼んだ。日本の船と港の歴史上、画期的な発見だった。 最古の丸木船という言い方は、福井県小浜市の「鳥浜貝塚」から出土した丸木舟に対してもしばしば形容される。いずれも縄文前期 と判定されただけで、「XX 年製造」と書いてあるわけではないので、いずれが最古かは断じられないが、両遺跡とも、ほぼ同じような 状況にあったことは容易に想像できる。
浦入遺跡からは、各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。またここから発 見された「快状耳飾」と呼ばれる大型の土製耳飾りは、直径6.5cmもあり我が国最古級のもので、これは中国江南の、「中国・河 姆渡(かぼと)遺跡」から出土したモノに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性も取りざたされている。
沖あいを対馬海流が流れる丹後半島では、相当早くから大陸と密接な交流があったことが考えられる。今日この地方は、近代日本の発 展からは置いて行かれたような鄙びた半島というイメージが強いが、弥生・古墳時代の遺跡を通じて見られる「鉄」と「ガラス」製品 の夥しい数、およびそれらの製造に関する先進性は、この地方が大和政権に完全に組み込まれるまで、独自の文化を持ち、大陸・半島 と相当密度の濃い交流をしていたことが考えられる。
或いは、これらの技術をもたらしたのは、対馬海流に乗って、大陸・半島から渡 来してきた人々そのものである可能性もあるのだ。峰山町「途中ヶ丘遺跡」出土の有舌尖頭器は、縄文時代の草創期に人々が狩りに明 け暮れていたことを示しているし、網野町「浜詰遺跡」から出土した動物の骨を見ると、クジラなど共同作業でしか穫れないような獲 物も多い。
久美浜の「函石浜遺跡」は縄文時代の居住跡であるが、約2千年前の中国の貨幣「貨泉」が出土していて(「新」、西暦8 〜23年)、弥生時代に入ってからも大陸との交流が行われていたことを示している。
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