道端の古い石碑に「くまのみち」と書かれていますね。
道路の高架下を潜りましたが、そこにこんなポスターが・・・
少し調べてみました。
世界遺産「熊野古道」をはじめ、尾鷲市の歴史と自然の恵みが満喫できる日本ウォーキング協会公認の歴史と癒しのコースを行くウォーキング大会らしいです。
熊野古道馬越峠コース・八鬼山峠や尾鷲湾を一望できる天満浦のみかん畑のコース等、多様なコースから選べるそうです。
数多くの特典やコース途中でのおもてなしがあり、一日参加も、二日参加もOKのようです。 県道778号線まで出てきました。
尾鷲から馬越峠に行くときの入り口のようですね。
ポランティアのお嬢さんが地図を見ながら会話中。
ここから、熊野古道を外れて、県道778号線を西に進みます。
立派な山門の金剛寺がありました。
目的地の尾鷲神社はその隣になります。
木の鳥居が尾鷲らしいと思いました。
尾鷲神社の由緒が書かれていましたよ。
熊野古道とも関係が深いようですね。
干してある藁は、神事に使うのでしょうね。
手水舎で体を清めましょう。
作法が額に掲げられていますが、イメージがつかみづらいですね。
でも、安心してください。
可愛い巫女さんのイラスト付きで書かれた立て札もありますから。
順番は、「左手・右手・左手で受けて口・口をゆすいだ左手・ひしゃくの柄」ですね。
尾鷲神社境内には、2本の巨大な楠があります。
なんと、木の周囲は、10mと9m、樹齢は1.000年以上だそうですよ。
大きいです、木から離れて撮らないと全体が写りません。
二本の木にはしめ縄がかけられていて・・・
小さな鳥居の右横には、夫婦楠と書かれていました。
左側の立て札には、御神木の効能書きが・・・・
「良縁・子宝伝承」
根のあたりは一つに繋がっているようです。
日本一降雨量の多い尾鷲の雨で、千年以上もかけて、すくすくと育ってきたのですね。
本殿へお参りしましょう。
靴を脱いでお上がりくださいと書いてありますが、
体中汗まみれなので、恐れ多くて上がることは出来ませんでした。
外からの参拝をお許しください。
顔出しパネルもありますよ。
ヤーヤ祭のヤーヤ衆のパネルですが、
ヤーヤ祭は、尾鷲で2月1日から5日まで行われる奇祭だそうです。
かなり激しいお祭りのようですね。
尾鷲神社を後にして、街まで戻りましょう。
川には、アオサギがいましたが、作り物のようにじっとしています。
魚が来るのを待っているのでしょうか。
馬越峠の方を見やると・・・・もやがかかっていますね。
雨が降り出したのでしょうか。
銭湯を見つけました。
煙突から煙が出ていたし、暖簾もかかっていますね。
お風呂に入りたいのですが、着替えを持っていません。
尾鷲のイオンまで行って、着替えを買うことにしましょうか。
「熊野古道 馬越峠を行く」は、これでおしまいです。
とりとめの無いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
次の熊野古道の散策は、どのコースにしようかな〜
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三重県南海道津波〜四日市公害
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三重県松阪市にある宣長が暮らした旧宅「鈴屋」に隣接する記念館です。宣長の私生活や、人柄までも楽しみながら学べるクイズをはじめ、来館された方も思わず足を止める宣長が描いた迫力満点の日本地図など、本居宣長
概要契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[4]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し[6]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[7]。
また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。
門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載れている。主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・藤井高尚・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。
生涯
「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月 賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山桜かな」[9] 本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家[10]の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす[11]。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。[12]
宝暦2年、22歳のとき、義兄[13]が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[14]に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[15]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[16]。
宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[17]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に、天明年間 (1781〜1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[18]。
死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方[19]、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。
その墓は近世以後、1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。
人物家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年(1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた[20]。
宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[21]。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである[23]。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた[24]。
読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい、などの考えを記している。
大和国吉野の水分神が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた[25]。
宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。 本居宣長2017/08/06 に公開
三重県松阪市にある宣長が暮らした旧宅「鈴屋」に隣接する記念館です。宣長の私生活や、人柄までも楽しみながら学べるクイズをはじめ、来館された方も思わず足を止める宣長が描いた迫力満点の日本地図など、本居宣長の自筆稿本や遺愛の品など約1万6千点を収蔵しています。 【三重県オススメ観光情報】 松阪市の定番・穴場・おすすめ観光・旅行スポット特集 「城下町で歴史散策とグルメ旅 松阪を歩く」 https://www.kankomie.or.jp/special/ma... 三重県の中南勢エリア(津市、松阪市、明和町、多気町、大台町、大紀町)のWeb観光・旅行マガジン 「Storyを紡ぐたび 〜もののはれ中南勢ものがたり〜」 https://www.story.kankomie.or.jp/ 三重県の観光、旅行、イベント、宿泊予約は、三重県観光連盟公式サイト「観光三重」! https://www.kankomie.or.jp/ 伊勢神宮・内宮・外宮・おかげ横丁などの伊勢鳥羽志摩の観光・旅行情報はこちら「初めてのお伊勢まいり:伊勢志摩を歩く」 https://www.kankomie.or.jp/special/is... 本居宣長記念館www.norinagakinenkan.com/ - キャッシュ
本居宣長記念館のご案内、本居宣長について、鈴屋について、主要収蔵品、展示・ 催し物.
www.norinagakinenkan.com/info.html - キャッシュ
開館時間, 午前9時から午後4時30分. 休館日, 月曜日(月曜日が祝日の場合は、翌火曜日)・年末年始休館. 入館料, 本居宣長記念館・旧宅(共通). 大人400円・大学生300円・子供(小学4年から高校生)200円. ※団体・障がい者割引有り (団体は30名以上 ... |
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2017/08/06 に公開
北海道の名付け親として知られる松浦武四郎。2018年には生誕200年を迎え、様々な催しを予定しています。 三重県松阪市にある松浦武四郎記念館では、武四郎の功績を伝える重要文化財を1505点収蔵し、展示室ではさまざまな武四郎の姿を紹介しています。 【松浦武四郎記念館の詳しい取材レポート】 北海道の名付け親「松浦武四郎」生誕200年。NHKでドラマ化決定!松阪市出身の探検家の生涯を詳しく紹介します https://www.kankomie.or.jp/report/det... 【三重県オススメ観光情報】 松阪市の定番・穴場・おすすめ観光・旅行スポット特集 「城下町で歴史散策とグルメ旅 松阪を歩く」 https://www.kankomie.or.jp/special/ma... 三重県の中南勢エリア(津市、松阪市、明和町、多気町、大台町、大紀町)のWeb観光・旅行マガジン 「Storyを紡ぐたび 〜もののはれ中南勢ものがたり〜」 https://www.story.kankomie.or.jp/ 三重県の観光、旅行、イベント、宿泊予約は、三重県観光連盟公式サイト「観光三重」! https://www.kankomie.or.jp/ 伊勢神宮・内宮・外宮・おかげ横丁などの伊勢鳥羽志摩の観光・旅行情報はこちら「初めてのお伊勢まいり:伊勢志摩を歩く」 https://www.kankomie.or.jp/special/is... 松浦武四郎松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。名前の表記は竹四郎とも[1]。諱は弘[1]。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数[1]。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。
経歴文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[注釈 1][1]。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ移住してきたといわれ、別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[5]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、武四郎は13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び[6]猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得るなど[7][8]、後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から日本国内の諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[7]、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[7]、その探査は北海道だけでは無く択捉島や樺太にまで及んだ。
蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[7]。安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」[9]を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」[10])と命名した。更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している[注釈 2]。翌明治3年(1870年)に北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上した[12]。この間、北海道へは私人として3度、公務で3度の合計6度赴き[10]、およそ150冊の調査記録書を遺した[11][13]。
余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったと言われている。武四郎は天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を神社に奉納した[7]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[14][15]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して「千島一覧」[16]という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め[17][18][19]、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った[20]。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去した[2][1]。遺骨は染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、武四郎が最も好きだったという西大台[注釈 3]・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」[24]に分骨されてもいる。
なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家と武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」[25]があり、多彩な活躍と広い人脈を紹介する展示を2ヶ月ごとに入れ替え、また講演会や「武四郎講座」[26]と題した座学を開いている(平成6年(1994年)開館)[12][27]。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保存されている[28][注釈 4]。
北海道音威子府村物満内[31]には「北海道命名之地」の記念碑があり[注釈 5]、釧路市の幣舞公園[33]、安政4年(1857年)の天塩川流域調査で立ち寄った地点のうち出発点の天塩町鏡沼海浜公園 (銅像・歌碑)など[32]、小平町鬼鹿広富のにしん文化歴史公園[34]には銅像がある(武四郎の身長は4尺8寸(4.8尺 (150 cm))、足の大きさは24cm)。北海道勇払郡厚真町富里の松浦武四郎記念碑[35][36]を始め、道内に50基に余る記念碑があるといわれる[注釈 6]。 天塩町鏡沼海浜公園に立つ松浦の歌碑に2首刻まれている[32]。
2016/02/29 に公開
三重県にゆかりの偉人の足跡を追った歴史ドキュメンタリー番組『実はみんな三重人(みえびと)なんです』 今回は北海道の名付け親『松浦武四郎』です。 松浦武四郎は文化15年(1818)、伊勢国一志郡須川村(三重県松阪市小野江町)で松浦時春(桂介)の四男として誕生しました。 武四郎の家は江戸時代にお伊勢参りの旅人でにぎわった旧伊勢街道の前で、子供の頃から自身も旅に出ることに思いを馳せていました。 16歳で初めて旅に出て、以後様々な旅を行います。 そして28歳で初めて蝦夷(北海道)へ渡り蝦夷の自然とアイヌ文化に触れることとなる・・・ 番組では北海道ロケを敢行。武四郎の足跡を追跡取材しています。 ※この番組は「みえ地域コミュニティ応援ファンド助成金」の一部で制作しています *制作協力先リンク 松浦武四郎記念館 http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/... アイヌ民族博物館 http://www.ainu-museum.or.jp 北海道開拓の村 http://www.kaitaku.or.jp 松浦武四郎記念館 トップ - 松阪市ホームページ平成三十年胆振東部地震に於いて被災されました皆様方に 心よりお見舞いを申し上げますとともに、 被災地の一日も早い復旧復興を切にお祈り申し上げます。松浦武四郎記念館の資料閲覧・資料掲載について 松浦武四郎記念館の資料 ... 北海道の名付け親「松浦 武四郎」 - 松阪市ホームページ平成30年は松浦武四郎生誕200年、北海道命名150年のメモリアルイヤーです!! ... 北海道の名付け親・松浦武四郎 平成30年(2018年)は武四郎生誕200年 「松浦武四郎 生誕200年記念事業」 はこちらから <外部リンク> 松浦武四郎 - 観光情報 - 松阪市観光協会【松浦武四郎記念館】 松浦武四郎の知られざる功績や遺品を後世に守り伝えようと県有形文化財に指定されている資料を中心に展示を行い、武四郎の人物像や歴史文化を紹介している。〒515-2109 三重県松阪市小野江町383番地 TEL ... 松浦武四郎誕生地 | 松浦武四郎記念館松阪市小野江町にある松浦武四郎誕生地は 松浦武四郎の実家にあたり、 昭和37年(1962)に、当時の三雲村が 史跡に指定した場所です。 武四郎の父・時春には末っ子の武四郎のほかに、三人の子どもがおり、 実家は武四郎の兄 ... 松阪市図書館:パスファインダー松浦武四郎松阪市図書館のHPへようこそ!三重県松阪市にある、松阪市松阪図書館と松阪市嬉野図書館をご案内いたします。 松浦武四郎 松阪の画像bing.com/images 北海道の名付け親「松浦武四郎」生誕200年。NHKでドラマ化 ...松阪市出身で、2018年で生誕200年を迎える探検家「松浦武四郎」をご存知ですか?数ある功績の中でも一番著名なのは、当時「蝦夷地」と言われていた場所に「北海道」と名付けたこと。松浦武四郎の生涯や誕生地を詳しくご紹介します。 【関西の議論】「北海道」と名づけた男・松浦武四郎、NHKで ...2018/08/01 · 「蝦夷地(えぞち)」を「北海道」と命名した三重県松阪市出身の探検家、松浦武四郎(1818〜1888年)を顕彰する動きが広まっている。今年は武四郎の生誕200年で… |
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伊勢鈴鹿の関に行って来ました。 東海道五十三次の四十七番目の宿場町です。今は「関宿」といわれています。道を挟んだ両側に古い家並みが1kmほど続き、古モノ大好きの私には魅力的な町です。 新しく建て直された家も数件ありますが、「街並みを揃える」ため、格子戸が前面に張られ景観をを損わないようになっています。 実際に商売をしている商店とシモタヤが並び生活感が伝わってくる町です。「関の戸」菓子店は老舗。時代劇の店先の雰囲気をそのまま残していました。が客はいません。 ウロウロウロ。呉服屋さん?は宿場町にはなかったのかな!!。私が見過ごしたか?な。 足が止まってしまったのが「フルモノ屋」です。古い街並みにとってもピッタリとしているんです。が、待てよ、江戸時代のシュクバ町にあったのかナ。 落語の世界では、手間職人が親方から「解雇」を申し渡され、食うに困り、とりあえず家の中にあるブツを、道端に並べて「リサイクルショップ」を開店。な〜んて話はあるんですけど。 てなてな事を思いつつ店先で「好みのもの発見」明治時代の物だと店主はいうがこれはマユツバ。壽の文字四つの間に「花」のデザインと、何だかよく判らない、タヌキ?カニ?オヤジ?がデフォルメされた器です。 藍色手描きの蓋ものの器に心惹かれ、日焼けして色落ちもあるが、旅の思い出にひとつ購入を決定。隣の若者は、こんな汚いもの?という目でふ〜んという感じ。 お値段を見てやっぱり「止めようかな」ナナナントワンコイン。思い出が500円で買えちゃいました。
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関町は鈴鹿山脈の東麓にあり、古代には越前の愛発【あらち】、美濃の不破【ふわ】とともに三関と いわれた伊勢鈴鹿の関が置かれていたところです。町名もこの鈴鹿の関に由来します。
伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇) が皇位を争った壬申【じんしん】の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによります。 延暦8年(789年)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御【ほうぎょ】 や政変などが起こるたびに関が固められました。鈴鹿関の位置や規模、当時の「関」の様子などははっきり とわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられています。
中世の関一帯は伊勢平治の流れを汲む関氏の所領で、旅人や近在の人々の信仰を集めた地蔵院には 門前町が形成され、この集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。 この関地蔵を中心に次第に宿場町が整備されていくのであり、現在見られるような町並みの基礎 が築かれたのは、天正11年(1583年)に関盛信が中町を町建てしたときにさかのぼると考えられています。
![]() 慶長6年(1601年)、徳川家康の宿駅制度化により、東海道に53の宿場が設けられました。現在の関町内には 品川から数えて47番目にあたる関宿と、48番目にあたる坂下宿の二つの宿場が整備されました。特に、 関宿は西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、これらの街道を往来する人々もあって、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として江戸時代を通じて繁栄しました。天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によると、関宿では戸数632戸・人口1,942人を、坂下宿では153戸・564人を数えました。 江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入しました。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。また、山車【やま】が曳き出される関宿の夏祭りも良く知られていました。狭い関宿を最盛期には16基もの山車がねり、「関の山」 という言葉まで生まれたほどでした。当時の賑わいが偲ばれます。
明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていましたが、明治23年の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受けます。町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためです。その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至るのです。
関宿は、旧東海道の宿場のほとんどが旧態をとどめない中にあって、唯一往時の町並みが残ることから国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その保存とともに、歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んでいるところです。 |







