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私は小沢一郎が嫌いです。
私が選挙に出る理由はああいう政治家を政治家にしたくないからです。
けれど、今回の判決はまっとうだと思います。
司法の判断を支持します。
「疑わしは罰せず。」
この原則を司法が逸脱してはいけない。
司法の判断は正しいと思います。
逆に言えば、ここが司法の限界なのです。
司法で政治家を裁こうとする行為が間違っているのです。
政治的な責任を問わなければいけないのです。
選挙で「小沢一郎を落とさないとダメなんです。」
正直言って、私は嫌いな小沢一郎以上に、
選挙にも出ず、選挙にも行かずに小沢一郎を批判する人たちを軽蔑しています。
そういう人たちよりも嫌いな小沢一郎の方がはるかにマシでまっとうだと思っています。
あなたたちが小沢一郎を政治家たらしめ、政治的責任を不問にしてしまっているのです。
「政治不信で喜ぶのは政治家だけです。」
選挙に行かなければ、行かないほどに、政治家を利することは少し考えればわかることです。
その少し、その少しのことを考えることを放棄し、行動しない人たちを私は軽蔑します。
私はそういう人にはなりたくないのです。
だから私は選挙に出るのです。
私が選挙に出る理由はそんなところです。
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政治のこと
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橋下大阪市長発の
小中学校においての留年措置について
私は、小中学校における留年措置は教育サービスの向上と認識します。
留年の結果、学費を多く払わなければいけない、高校大学とは違うのです。
自己負担なしで、他人より多くの教育サービスを享受できるのです。
できない子に対しての罰則ではなく、できない子のための優遇措置なのです。
勉強せずに学校を卒業することが良いことだと考えている人ならまだしも、
少しでも多くのことを学んで社会に出たいと考える人は歓迎して良い話だと私は考えます。
昨年の選挙で私は
小中学校までは補習無料
希望する人には(年齢関係なく)
中学校までの学習内容は理解するまで行政が責任をもって教えます。
と掲げて選挙に出ました。
教育に機会の平等ではなく、結果の平等を保障しようという考えからです。
当選しませんでしたが、
私は橋下大阪市長ほどに愛情が無いので、強制的に留年させることは考えません。
勉強せずに学校を卒業したい人は勉強しないまま、どんどん卒業してもらってかまいません。
(私はそういう子供、親に憎まれながら無理やり勉強させるほどに愛情深くはないのです。)
勉強したくない人にお金と労力かけるのばかばかしい。
コストをかけないことで、満足度が高まるのであれば、行政としてはありがたいかぎりなのです。
効率化や数値化、競争で批判される橋下市長が珍しく、その逆のを目指しているのです。
勉強したくない子供を無理やり勉強させようとすることに
いじめや学級崩壊やモンスターペアレントなどの公教育の問題の原因が少なからずあると思っています。
勉強したいと思わせることも教育ですが、
そう思わない人にまで学校が無理やりそう思わせる必要は無いと考えます。
(親には、そう思わせる責任がありますが、)
勉強したい気持ちのないままに、学校に行く方が間違っている。
多くの税金を使って学校を運営しているのです。
それを受けたくないという人にお金を使うよりは、もっと勉強したいという人にお金を使うべきです。
意欲があればあるほどに社会が自分に対して資本を投下してくれるのですから、
そうすることが、勉強に対する意欲を育てるのだと考えます。
けれど約束します。
「勉強したい。」という意欲を持った人は、必ず(必ずです。)受け入れます。
何才だろうと、お金があろうと、無かろうと、ヤクザだろうと、犯罪者だろうと
それが公の役割だと私は考えるのです。
60才、70才の人が学びたいと強く思い、10才に満たない子供と机を並べる。
ヤンキーやヤクザやチンピラや、日本で働こうとする外国人や、元プロ野球選手や、
いろんな人が一緒に学ぶ。
良い社会じゃないですか、本気でそう思います。
現状でも、親が希望さえすれば、留年は可能なのです。
「うちの子は2年生に達していないから留年させて下さい。」って親が言えばそれで済むのです。
(それを校長が拒否すれば問題ですが、)
私が親なら、そう言います。
留年するよりも、勉強できないままに卒業してしまう方が、かわいそうだと私は考えます。
問題は、「勉強しないまま、知識を身につけないまま学校を卒業することに価値がある」
と少なくない人が考えてしまっていることです。
そういう人が一定数を超えてしまうと社会は維持できなってしまいます。
子供のために、社会のために、
恨まれようとも、憎まれようとも、勉強させようとする学校の先生を尊敬します。
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「誰かがやらなくてはいけないこと」
という記事を書きました。
その記事のあとにこの記事を書くのは少し勇気が要ります。
地震で生じた瓦礫の処理は誰かがやらなければいけないことです。
ですから、前の記事の原則からすれば、誰もがやらなければいけないことです。
当然、私もやらなければいけないことです。
けれど、私には震災による瓦礫を「絆」というひどく安っぽくなってしまった言葉の元に
無差別に受け入れることはできません。
議論を整理するために、地震によって生じた瓦礫を大雑把に分けて
津波瓦礫と
放射性瓦礫に分けようと思います。
もっと言えば、放射性瓦礫とそれ以外の瓦礫に分けたらスッキリしますね、
どのレベルからが放射性瓦礫かそれ以外の瓦礫かといえば、
基準は自分の家の庭に置いても良いって思えるレベルの瓦礫を、「それ以外の瓦礫」
そう思えない瓦礫を「放射性瓦礫」とこの記事では定義します。
法律を作るのは、国家議員ですから、
国会議員の自宅に置ける瓦礫が「それ以外の瓦礫」です。
もちろん、私自身の家にも置けると思える瓦礫のことです。
正直に言います。現状では、私は自宅の庭に震災瓦礫を受け入れることはできません。
「非国民!」とののしられてもかまいません。
けれど、そういって良いのは、自宅の庭に震災瓦礫を受け入れた人に限ります。
自宅の庭に受け入れ可能な瓦礫は受け入れます。
それでも、どうしても受け入れられなかった放射性瓦礫は、本当に申し訳ありませんが、
「福島原発の周辺に処理施設を作って処理する。」
本当にすみません。
これを言うのは本当に心苦しいです。
「故郷を捨てろ」という言葉とほとんど同じですから、
私だって故郷を捨てたくないですから、
いつの日か故郷に帰れるように協力します。
他の地域で暮らせるように協力します。
一緒に毒を飲むことが私の絆ではなく、
一緒に生きていくことが私の絆です。
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誰かがやらなくてはいけないこと
という記事を書いたのは、きっと、
「政治家や選挙に出る人を、どうしてそんなに特別な目で見るのかな?」
という気持ちから記事を書いたのだと思います。
正直、私にはわからないのです。
「どうして、自ら選んだ、生活を託した政治家に対して、こうも不信なのか?」
選挙で自ら支持した政治家をなぜ支持できないのか?
支持できない政治家をなぜ選択してしまうのか?
私には理解できないのです。
自ら信用できない政治家を選出しておきながら、
政治家は信用できないと言う。
私には全く理解できないのです。
あれも嫌、これも嫌で、結局でた結論にも嫌という。
ひどく、子供っぽく感じます。
自ら対案を出さず、結論にも納得できない。
ものすごく、子供っぽい。恥ずかしい。
(そういう私を子供っぽいと言うけれど、)
私は、そうなりたくないから、選挙に出るのです。
自分が選出したくない政治家を
政治家として認めたくない政治家を、政治家にしたくないから選挙に出るのです。
ただそれだけです。
少なくとも私は、選挙の結果を、選挙で選ばれた政治家を支持しています。任期の間は、
だって、選挙で負けたんだもん。
選挙に出ない多くの人より、現状の政治に強く不満を持っている私でさえも
そういう納得ができることに、選挙に出る価値があると思うのです。
自ら選んだ政治家を支持できない、と平然と言うあなたたちは、子供です。
「恥を知れ!!」って感じですよ。
選挙に行こう。
入れたい人がいなけりゃ選挙に出よう。(しかたないじゃないですか、入れたい人がいないんだから)
受かった人を(少なくとも任期中は)支持しよう。
それだけで、この国は変ると思います。
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誰かがやらなければいけないことは誰もがやらなくてはいけないことで、
誰もがやらなくてはいけないことは、誰でもできることでなくてはいけない。
特定の人の能力に期待して社会を維持しなければいけない社会は弱い。
特定の人の犠牲なしに成り立たない社会は、設計が間違っている。
具体的に言えば、警察や消防、そして、軍隊、教育や医療、裁判や政治。
これらを特定の人にしかできないものにしてしまうと、社会は弱くなります。
だから私は、消防団や徴兵制、教育の無料化、裁判員制度を支持します。
政治家だって選挙でなく、くじ引きで良いと思っています。(理解されませんが)
誤解されないために言いますが、
警官や消防士、教師や医師、裁判官や政治家に能力が必要ない。
という話しではありません。
それぞれの人がその能力を活かし、磨き、社会に役立てることは
より良い社会を作ります。
現在、私はその恩恵を大いに受けています。感謝しています。
高い能力を期待し特別な人に、特別なサービスをで求めるのは結構ですが、
特定の人の能力なしには、社会を維持する最低限のサービスもうけれない。
という社会を私は恐れるのです。
社会の根幹を成す仕事だから、と専門家に任せる。
ではなく、
社会の根幹を成す仕事だからこそ、誰もが携わらなければいけないと私は考えるのです。
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