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M子は、途中でタクシーを降りた。
「ほら、チ―坊。じゃなかった。つよし」
そう言って、剛の手に五千円札を握らせた。
M子は、思わず表情をくずす。
「いけない、いけない。あなたを見ていると、つい弟を思いだして」
「いるんだ、弟さん」
M子は、笑顔でうなずいた。
「きょうだいがいるって、いいよね」
「何よ、あなたには、いないの」
剛は返事をせず、じっとM子の眼をのぞきこんだ。
羨ましい気持ちが、剛の眼にあらわれている。
「弟、卓也っていうのよ」
「いい名前ですね。チ―坊って、言うのは」
剛が腕をくんだ。
「何もそんなに真面目になることないでしょ」
「小さい頃、呼びかわしたあだ名よ」
「なるほど。卓也が、チ―坊か」
「そんなに考えることないって、ほんと、生まじめなのね」
「舌たらずでしょ。二歳くらいは」
「男の子は女の子より、口をきくのが遅いものね」
「そうそう」
「大人になってからも、口では負けるよ」
「その通り。わかってるじゃないの。我が弟も、いろいろ勉強してるようだね」
M子は右手を剛の肩にのせて、ほほ笑む。
「俺は、弟さんの代わりなんだ」
うつむいて、ぼそっと言った。
ふいに、M子が窓の外を見た。
「あっ、あたし、この辺で降りなくっちゃ」
「こんな大通りじゃ、あぶないよ。もっと近くまで、行ってもらったら」
「歩いて、すぐだから」
「こんなに遅いんだし」
時計の針は、十二時をとっくにまわっていた。
「そうね、剛がそう言うなら」
「俺だって、心配だもの」
「ほんとう。ほんとに心配してくれるの」
「当り前さ」
「うれしいっ」
気心のかよった友が一晩のうちにできて、M子は喜んでいる。
都会は他人の街だと、この十数年で、身にしみて分かった。
職場の同僚の中には、M子の身を案じてくれる人が、ひとりやふたりはいるが、
本当に心の底からのものか、疑わしかった。
人間関係がわずらわしい。
出世欲、色恋沙汰等。
利害がからむと、どうしても、腹を割って話すことができにくい。
うわべだけの付き合いになりやすかった。
「すみません、運転手さん。その四つ角を右に曲がってください」
M子のマンションは、JR上野駅からそんなに離れていない。
台東区内にある。
「悪いね、出してもらってばかりで」
剛は、遅い礼をのべた。
「いいのよ。勝たせてもらったんだもの。今日は、じゃなくて、きのうは」
「また、お願いします」
剛は、店員らしい口をきいた。
左奥に、五階建てのビルがうっすらと見える。
月の光を受けているせいで、輪郭がはっきりしていた。
タクシーが、玄関先で停まった。
「それじゃ、付き合ってくれてありがとう、つよしくん」
ドアの外から、M子が声をかけた。
それじゃまたね、と言いかけて、
剛は、あわてて口を押さえた。
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姿川恋物語シリーズ
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