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早苗がいなくなって、一夫は困った。
食事は、近くのコンビニで充分用を足すことができた。
しかし、預貯金の通帳や印鑑等の所在がわからない。
出て行く時に、ほとんど持ちだしてしまったのかもしれない。
女房を怒らせたらこわい、と今頃になって骨身にしみてきた。
給料日にもらった二万円が全財産だった。
それもあと数千円残っているだけだ。
仕方がないので、会社に無理をいった。
中堅のインテリア企業の本社の部長にまで、一夫は上りつめていた。
判りました、とすぐに都合をつけてくれたが、
いったい、部長、どうされたんですか、と心配されてしまった。
普段は横柄な口ぶりの一夫が、総務の格下社員に丁重に頭をさげた。
しょうがない、これも俺の身から出たさびだ、と渋い顔だ。
汗ばむほどに天気の良い休日。
一夫は居間で新聞を読んでいる。
「おい、今日はちょっと出かけてみるか」
寝室のそうじをしているセラヴィに向かっていった。
掃除機の騒音で聞こえなかったのか、彼女の返事はない。
一夫が立ち上がった。
腰をかがめているセラヴィの後ろにまわり、体を両手で抱いた。
体をびくりとふるえ、「おおっ」と叫んだ。
左手で掃除機をつかんだまま、右手をおおげさにふった。
セラヴィは、最近ますますフランス人らしくふるまうようになっている。
一番困るのは、言葉だった。
前世の記憶がかなりよみがえったらしい。
「眼鏡」のことにあまり頓着しなくなったところを見ると、
店員であることも忘れかけているようだ。
あの眼鏡をかけなくても、一夫はセラヴィの姿が見えるようになった。
便利なようだが困ったことだ、と思う。
二日前、ご近所の女の人に見とがめられた。
玄関で回覧板を手に持ったまま、
「奥さま、最近お見えにならないですわね」
「ええ、ちょっと。実家に帰っておりまして」
「何か、ご用ですの」
「母親がちょっと具合が悪いものですから」
台所から足音が聞こえていた。
「あら、どなたかいらっしゃるの」
「ええ、知り合いが来てるので」
一夫は顔を赤くして、防戦につとめた。
あれは、降ってわいたような災難だったんだな。
初めは鼻の下を長くした一夫だが、今は苦労ばかりであった。
「何よ。あたし、今いそがしいの」
セラヴィが居間のドアを開けて、つっけんどんに言った。
ひたいに汗をかいている。
「掃除はいいからさ。なっ、今日は外出しよう。いいお天気だし」
「わたし、彼と行くから」
一夫は耳を疑った。
セラヴィの若さを考えると、フランス人の恋人に違いなかった。
怒ることもできない一夫は熱心にさそう。
セラヴィは、ついにウイッと答えた。
ノンとかボンジュールくらいなら、一夫はわかる。
細かなことはさっぱりだ。
この先、まったく日本語をしゃべらなくなったら、と気が気でない。
軽乗用車に大きな体を無理に押しこめた。
セラヴィは窓を開け、ひじをかけた。
「こんな小さな車じゃいやだわ」
「そうだろうが、ちょっと辛抱してくれ」
「いやよ。私の家はもっと大きくて、庭も広いわ。プールもあるのよ」
言いつのるセラヴィの横顔を見つめて、
「おまえな、今の立場をもう少し考えてみたらどうだ」
と語気を強めた。
急にセラヴィの顔色が変わった。
赤ん坊が泣くように真っ赤になり、わけのわからないことを口走った。
両手で自分の膝をたたいて、泣きはじめた。
自分も怒りたい気分だが、一夫はこらえた。
海辺近くの駐車場に車を止めた。
一夫は先に降り、助手席のドアを開けた。
「さあ、着いたよ」
セラヴィは、降りようとはしない。
プイッと顔を横に向けた。
彼女をそのままにして、一夫は海辺に向かった。
階段をおりて行く。
ザクザクザク。
歩くたびに、運動靴が砂地にめりこむ。
砂浜がずっと先まで続いていた。
白い入道雲が浮かんでいる。
海はないでいるせいか、波がおだやかだ。
小さな水音を立てて、打ち寄せては引いて行く。
一夫は靴が濡れるのもかまわず、水平線を見つめた。
背後で足音が聞こえたので、「セラヴィ」と笑顔をむけた。
早苗が立っていた。
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