蝶シリーズ

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化身 その3

男女七歳にして、席を同じくせず。
女の方から男に対して、容易に口をきけない窮屈な時代だった。
同僚の視線も気になる。
M子は前を向いたまま、黙ってやり過ごそうとした。
二、三歩離れたところで、もう一度係長の声が聞こえた。
「仕事を終えてから、ちょっと会ってくれませんか」
機械の音にさえぎられて、ほとんど聞き取れない。
しかし、確かに男の肉声だ。
しぼりだしたような悲痛さがこめられ、M子の胸にビンビン響いた。
ひと眼見るだけだからと自分を納得させて、思いきってふり向く。
Bは真正面からM子を見ずに、横顔を向けていた。唇がふるえている。
上司の威厳をたもとうとしているのか、背筋をピンと伸ばし顎を引いていた。
きれいに髭をそって、青っぽくなっている口のまわりの肌が妙になまめかしい。
好感を持っていた男の必死の告白に、
M子はそれとなく頭をさげて、敬意をあらわした。
 
職場にもどり、糸にふれた。
隣にいたA子がそっと近寄り、「ねえ、ねえ」
と、耳もとによく動く口をよせてきた。
「何よ。うるさいわね」
M子は知らん顔をきめこむ。
案の定、気付かれたのだ。
「あの人、あんたに何ていったの」
人差指で肩をツンツンつついた。
それでもM子は素知らぬ表情をしている。
「ああ、あれ。何でもないわ」
仕方がないと応じた。
あらぬうわさを立てられるのは嫌だった。   
M子は仕事の手を休まないでいる。
「食事にでもって、誘われたんじゃないの」
A子は口もとに薄笑いを浮かべて、言いつのる。
「機械に身体を巻きこまれないようにって」
A子をぐっとにらみつける。
「何よ。ぬけがけは許さないから」
悔しいとばかりに、A子は糸を持つ手に力をこめた。
ブチッと鈍い音がした。
ゴ―と大きな音がしたかと思うと、機械がとまった。
工場の中にベルが鳴り響いている。
 
ふたりが事務所に呼ばれた。
工場長が怒鳴っている間、M子は頭をさげていた。
ふいに尿意をもよおし、
「すみません、ちょっと」と、頭をあげた。
鼻の下に長い髭をしの字にあげた年輩の男は、
おほんと咳払いをすると顎をしゃくった。
M子は小さい頃から叱られるとおしっこがしたくなった。
五歳だったろうか。用を足して紙で股をふいた時、妙な感じになった。
ジンと頭がしびれたのだ。
それ以来、怒られるたびに便所に行った。
もう少し大きくなってからだったろう。
真夏に掛け布団をかぶらずに、母のそばで昼寝をしていた。
右手が無意識に股間に伸びていて、
生えはじめたばかりのヘアをこすっていた。
母親が気づいて、激怒した。
仁王様みたいな顔をして、M子の手をはたいた。
今は何でも知っているから、母が怒った理由もわかる。
鳩だって、犬だって、くっつくんだ、と胸を張っていえた。
自然なことだと理解するのに、長い時間がかかりはしたが・・・・・・。 
就業のベルが鳴ると、M子の胸はどきどきしはじめた。
なんとか着がえを終えて、正門を出る。
同僚よりも遅く着がえをすました。
正門を通って行く。
足もとが地についていないようで、ふわふわしている。
上着が見えるわよ、と自転車に乗ったA子が素っ頓狂な声をかけて行った。
立ちどまってあたりを見まわすが、係長は見当たらない。
M子はほっとすると同時に、むしょうにさびしくなった。
門の前に道に沿ってイチョウの木が植えられていた。
「うっ、うん」
すぐそばの太い幹の陰で野太い声がした。
タバコの煙がただよっている。
M子は何気ない風をよそおって、その木に近づいた。   

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