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M子はわざとひとつ向こうのイチョウの木まで歩いた。
葉の色を濃くしている木々が人の姿を見えにくくしている。
あたりをうかがうようにすると、M子はさっと木陰に身をひそめた。
工場を囲んでいる高い壁に背中をくっつけてかがみこんだ。
「よく来てくれたね」
Bがすぐにそばに寄って、わきにすわりこんだ。
ぷんとタバコが匂ったが、くわえてはいない。
「な、なにかあたしにご用ですか」
地面を見つめながら、緊張した面持ちでいった。
「いやね、転勤してきたばかりで、この街に不慣れなんで」
「そうでしょうね」
しばらく、ふたりは黙ったままだった。
「あたし、もう行かなくちゃ」
M子が切りだした。
「い、いちど、この街を案内してくれないかな」
「私が、ですか。それでしたら、ほかにどなたでもおられるでしょうに」
コツコツと足音が聞こえてきた。
年輩の紳士がステッキを持って通りすぎていく。
話声が聞こえたのか、ちらっと木影をのぞいた。
ふたりそろって、下を向いた。
何も話しかけられませんように、とM子は心の中で祈った。
紳士はふふっと笑みを浮かべると、さっさと歩きだした。
Bは、上気した顔をM子にむけて、
「良かったなあ」といい、ふううとため息をついた。
「ええ、ほんとに。良かったですわ」
Bの本心からでた言葉に感動して、M子は答えた。
互いの脚がふれあっている。
「あっ、ごめんなさい」
M子はあわてて、身をちじめるようにした。
「君はかわいいね」
と言いながら、Bは自分の手を、M子の手にかさねた。
あっと小さく声をあげ、M子は手を引っこめようとした。
Bはぐっとつかんで放さないでいる。
M子の背中に右手をまわし、ぐっと引きよせた。
意外な展開にM子の心は揺れ動いている。
Bの熱い吐息が肩にかかった。
M子は目をつぶって耐えていたが、「もうだめ」と叫んで、立ちあがった。
BはうらめしそうにM子を見あげている。
もう一度、M子はしゃがみこむと、
「こんな所じゃ、これ以上は無理でしょ」と、Bの耳もとでささやいた。
Bはわかったといった表情で立ちあがり、枝に手をのばした。
扇形をした葉っぱを一枚つみとり、M子の手ににぎらせた。
夕暮れがせまっていた。
一羽のアゲハ蝶が道の向こうから飛んでくるのが見えた。
何を勘違いしたのか、M子が手にしたイチョウの葉にとまった。
「どうしたんだろうね、このアゲハ」
Bが首をかしげた。
M子がBの手をとり、にっこり笑った時、あたりの景色が急にゆらめきだした。
アンテナを失くしたテレビ画像のように色を失くしていく。
「M子さん、М子さあん」
若い介護人、S子の甲高い声が遠くで聞こえる。
M子は、まるで自分の体が湖の底から浮き上がって行くように感じた。
ぶわっと水面にでた。
目を開けると、S子の顔がすぐ近くにあった。
M子の手を両手で握りしめ、目に涙を浮かべている。
「どうしたのよう」
S子は叫ぶように言う。
「なにが、・・・・・・」
M子は、目をきょろきょろ動かした。
「なにがって。いくら呼んでも起きないから、お医者様に診てもらっていたのよ」
「そうなんだ」
M子はにっこり笑う。
「そうなんだじゃないでしょ、・・・・・・」
白い服を着た中年男がM子の顔をのぞきこんで、
「ああ、もう大丈夫です」といって、微笑んだ。
「おばさん、良かったわね」
いつの間に来ていたのだろう。
姪が家族二人とともに部屋にいる。
医師が、姪の肩をポンとたたいて、歩きだした。
部屋の出入り口で手招きしている。
姪のF子は急いであとを追った。
廊下のソファにふたりで腰かけた。
「だいぶ心臓が弱っておられるようです」
眼鏡を指で上にあげるようにしながら、医師は
F子の耳もとで小さな声で言った。
「今日のイヴェントに出ても大丈夫でしょうか」
泣きだしそうな顔を、F子は医師に向けた。
「それはオーケーです。でも無理は禁物ですよ」
「わかりました。ありがとうございます」
F子は何事もないような素振りで、
「さあ、おばさん。お祭りが始まるわよ」
と、元気良く呼びかけた。
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蝶シリーズ
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