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わからない。 その2

 夫ではない。
 息子でもないとしたら、一体。
 体がぶるぶるっと動き、くちびるがわなわなと震える。
 孝子は腰がぬけたように、廊下にすわりこんだ。
 両手で耳をおおう。
 物音が、あいつに聞こえたかも知れない。
 孝子は思わず目をつむった。
 お化け。
 まさか、今時。こんなご時世に。
 孝子は高校を出ただけだが、理系は強い。
 科学で割り切れないことなど、この世には存在しない。
 かたくなに、そう思っている。
 しばらくじっとしていた。
 誰かが出て来る気配はない。
 物音もしなくなった。
 勇気を奮いおこして、もう一度台所をのぞいた。
 しんとしている。
 冷蔵庫の前には誰もいなかった。
 カサカサ。カサカサ。
 ゴキブリが這いまわる音が聞こえる。
 ドアを開け、スイッチを押した。
 すべてが照らしだされた。
 夕べと変わったところは・・・・・・。
 テーブルの上にグラスがひとつある。
 夫の使ったものだろう。
 飲み残しの水が入っていた。
 朝が来た。
 孝子は六時に起きて、台所仕事をはじめた。
 和也が二階から降りてきた。
 玄関を開け、ガレージに向かう。
 シャッターを開けてから、玄関にもどった。
 郵便受けに入っている新聞を抜き取り、台所のテーブルに置く。
 どこかいい加減なところのある夫とは、ずいぶん性格が違う。
 とても几帳面だ。
 亡くなった祖父にそっくりだ、と孝子は父をしのぶ。
 「和也、夕べ台所にいたかい」
 おそるおそる訊ねた。
 「うううん、寝てたで。いっぺん寝たら起きへんもの」
 
 そんな夜が一週間続いた。
 二日目は、またか、と思った。
 どうせ、台所には誰もいないんだ。
 三日目から、孝子は大して気にしなくなった。
 気になることが、ひとつだけあった。
 康夫のお腹がふくらんで来ている。
 湯上りの裸を見るたびに、そう感じた。
 思い切って、朝食時に訊ねた。
 「ちょっとあんた、この頃、おなか出て来てへん」
 康夫は椅子から立ち上がると、
 「どうれ」
 上着をめくりはじめた。
 窮屈な衣服が取り除かれると、康夫のおなかは、
うれしそうに、ぽこんと飛び出した。
 

わからない。 その1

 物音で、孝子は目がさめた。
 パタパタ、パタパタ。
 壁をへだてた台所から聞こえて来るようだ。
 誰かが、スリッパで歩きまわっている。
 寝室の灯りは、ほの暗い。
 目を細めて見ると、午前二時を少しまわっていた。
 寝室のドアが少し開いている。
 音が大きく聞こえるのは、そのせいだった。
 わきを見ると、掛け布団がめくれあがっている。
 夫の姿がない。
 水でも飲みに行ったんだろう。
 孝子はそう思い、無理に両目を閉じた。
 四十歳半ばである。
 昼間、めいっぱい働いている。
 パートだ、アルバイトだと忙しい。
 夫は最近、二十年勤めた会社をリストラされた。
 世の中にすねたような生活を送っている。
 夫と子供、三人暮らしだが、女は孝子ひとり。
 二十年間一日も欠かさずに、おさんどんを続けている。
 息子は、仕事の都合で帰宅が遅い。
 夕べも十二時ちょっと前だった。
 帰って来るまで、孝子は茶の間で横になっている。
 電気こたつに下半身を入れ、テレビを見ているうちに寝てしまう。
 子供の頃の延長で、和也は「おかえり」と言ってもらいたいのだ。
 もうちょっと静かにしてくれたら、ええのに。気のきかん人や。
 自分は、何もすることがないからええやろけど。
 孝子はそう考えて、ちょっと腹が立ってきた。
 
 ドアが大きく開いて、康夫が顔をのぞかせた。
 にやりと白い歯を見せた。
 「もうちょっと静かにしてや」
 孝子の語気が荒い。
 康夫は、何も言わずにうなずいた。
 ベッドに横になると、孝子に近づいた。
 体を押しつけてくる。
 両手を伸ばして、胸をいじりはじめた。
 「あほ、何時やて思ってるんや」
 強くこばんだ。
 「ええやないか」
 康夫はあきらめないで、のしかかろうとする。
 「エネルギーがありあまってるんやろ」
 孝子は、康夫の体を押しのけた。
 「また、それをいう」
 「あかん。あした私、早いねんで。おさんどん。代わってくれるか」
 「もうしばらくやってへんやろ」
 康夫の声が小さくなった。
 「いつまでも、若いこと言ってる。子供作ったんやしな」
 「なんや、おれ、もう用なしか」
 康夫は動きをとめた。
 体をごろんところがし、あああっと言った。
 孝子は、寝そがれてしまった。
 一匹、二匹と羊を数えるが、なかなか眠れない。 
 どのくらい眠っただろう。
 孝子は、また、物音で目が覚めた。
 くそっ。何度言ったら。
 わきを見ると、康夫は顔だけ出して眠っている。
 おかしいな。和也は、夜中にめったに起きて来ないはずだし。
 忍び足で、台所に向かう。
 真っ暗だった。
 ドアの隙間からのぞく。
 黒々とした物が、冷蔵庫の前でしゃがんでいた。
 
 
 

花もぐり その7

 時間が来たと、ランは散歩をせがんだ。
 正夫は上がり口で、首輪にチェーンをつける。
 いつものことだが、顔をぺろぺろなめられる。
 ざりざりした肌触りにうんざりした。
 一日ずっと家の中にいるのは、犬だってあきれてしまう。
 さてと、あきなちゃんは・・・・・・。
 きっと、あの女の人が警察に話してくれたんだ。
 もう心配はいらない。
 そっとしておいてあげるのが、礼儀というものだ。
 午後五時をまわったばかりだ。
 公園は明るい。
 砂場をのぞく。
 子供がふたり、向かい合わせにしゃがんでいた。
 ひとりは、あきなちゃんだ。
 もうひとりは、男の子。
 遊び相手がいるんだ。
 正夫はうれしくなった。
 「ほら、こうやるのよ」
 「うん、おねえちゃん」
 ぎこちない動作だが、あきなの言いつけに忠実にしたがおうとする。
 どうしたわけか、男の子の顔が暗い。
 「あきなちゃん」
 正夫が声をかけた。
 あきなが顔を横に向けた。
 笑ってくれる。
 正夫はそう期待した。
 ところが、そうではなかった。
 ふいに目をつぶると、ぶつぶつ言いはじめた。
 立ち上がると、目を開け、正夫をにらみつけた。
 右手に持ったコテをふりまわしながら、無言で向かってきた。
 「どうしたの、おじちゃんだよ」
 返事をしない。
 まるで何かにあやつられているかのようだ。
 男の子は近くの枝をひろうと、振り回しはじめた。
 ウウウッ、ワンワン。
 ランが異常に気づいてほえはじめた。
 あきなの顔のソウが変わっている。
 このところ、彼女を取り巻く環境が激変した。
 無理もない。
 虫の居所がわるいのだろう。
 ここはとりあえず退散しよう、と思った。
 他人の目がある。
 大人が悪さをしたとしか思わない。
 きっと、何か、勘違いをしているに違いなかった。
 公園の外にでた。
 大川の土手を歩いて行く。
 先日降った大雨で、水かさが増している。
 河原のゲートボール場がどこにあるのかわからなかった。
 あきなが追ってきた。
 男の子がつづく。
 正夫は夢の続きを見ているような気持になった。
 意志につまずいて転んだ。
 あきなが正夫の体にのしかかる。
 男の子が、何度も、ランを枝でたたいた。
 キュン。キャン。
 ランはチェーンをひきずったまま、走り去って行く。
 畜生め。
 肝心な時に役に立たない。
 正夫は、心の中でののしった。
 異様な力だった。
 幼い子なのに。
 一体どうしたわけだろう。
 正夫は土手を転がり落ちて行く。
 ザブン。
 川に落ちた。
 かろうじて、葦をつかんだ。
 あきなは男の子の枝をひったくると、正夫の手をたたきはじめた。
 ふふっと笑みを浮かべる。
 ヴェランダから落ちた男を想った。
 最後の時に、どんなあきなを見ただろう。
 タバコの火を、あきなの手の甲に押しつけたり、頬をつねったりした。
 それにしても、これは・・・・・・。
 どうしても、幼子の仕業と思えない。
 まるで悪魔だ。
 殺されたんだ。あの男は。
 下半身を濁流にもまれながら、正夫は思った。
  了
 
 
 

花もぐり その6

 正夫は、書斎の机のわきで、あおむけに寝転がっている。
 読みかけの週刊誌を、顔にかぶせてある。
 脳裏にあきなの顔が浮かんだ。
 今頃、どうしているんだか。
 母親とは、切り離されているんだろう。
 身寄りがないようだしな。
 施設に入れられているんだろうな。
 寂しくてたまらないだろう。
 わんわん泣いているだろう。
 正夫は、だろう、を何度もくり返した。
 自分にも孫がふたりいる。
 次女の和江の娘は、三歳になったばかりだ。
 幼稚園に入れてもらえる、パートの仕事ができる、と和江は喜んだ。
 正夫は、まだ可愛そうじゃないか、お前が離れちゃ、と反対した。
 三、四歳じゃなあ。
 何が何だか、わけがわからんだろう。
 そう思うと、目がしらが熱くなった。
 涙が頬をつたった。
 あきなの母ちゃん。
 早く出て来れたら、いいのになあ。
 そのうち、正夫は眠ってしまった。
 
 男が公園の中を走っている。
 この男は俺だな、と正夫は思う。
 小さな女の子がいっしょだ。
 どうしたわけだろう。
 犬たちが、立ったり寝そべったしながら、ふたりを眺めている。
 女の子の顔を見ようとするのだが、横を向いている。
 「こっち向いて、おじさんに、顔を見せて」
 やさしく語りかける。
 彼女は、小さく首を振るばかりだ。
 男がスピードをあげた。
 彼女も負けてはいない。
 足の動きがはやくなった。
 あんなに小さいのに。
 どうして、大人の足に追いつけるんだろう。
 男はとても不思議だった。
 何周したろう。
 足の筋肉がかたくなってきた。
 男は疲れて、すわりこんだ。
 女の子も近くにすわった。
 背中を見せている。
 今だ、とばかりに、男はそっと立ち上がると、彼女の顔をのぞきこもうとした。
 気配を感じて、わっと叫んだ。
 小さな体をふるわせる。
 両足の間に、頭をはさんだ。
 「どうして、顔を見せてくれないの」
 返事をしない。
 「見せてよ。お願いだから」
 顔をあげない。
 「頼むよ」
 男は無理にでも顔を見たいが、あえて腕力をつかわない。
 嫌われたくないからだ。
 「お願いします」
 ふいに彼女は笑いだした。
 とうとう顔をあげた。 
 のっぺりした顔だった。
 目も鼻もなかった。
 思わず、男は後ろにひっくりかえった。
 ひいひい言って、四つん這いで逃げて行く。
 女の子は男の背にまたがった。
 小さな手が、男の首をしめはじめた。
 
 「あんた、あんた」
 正夫の肩を、幸子がゆすぶった。
 仕事から帰ったばかりだ。
 「うん、なんだ」
 キョトンとして、あたりを見まわす。
 「何だじゃないじゃないの、そんなところで眠って。泣き声を出してたわよ」
 正夫は急に立ち上がろうとして、ふらついた。
 「ほら、気をつけて、もう若くはないのよ」
 正夫はその場にしゃがんだ。
 「働き口がないのはしょうがないわ、このご時世だから。でも、病気にだけはならないでね」
 妻は、いつもひと言多い。
 正夫は気がみじかい。
 怒りたくなったが、こらえた。
 「ああ、そうだ。あの女の人。帰ってきたって」
 「だれっ」
 「警察に連れて行かれた人」
 「かっ、かわしまさん」
 「そう」
 「よっしっ」
 正夫は両手でこぶしを作って、立ちあがった。
 

花もぐり その5

 一週間たった。
 正夫は夕方になると、公園に出かけていた。
 砂場にあきなの姿を求めるが、むだだった。
 今は、桜の花は散り、若葉がふきだしている。
 赤や黄のチュ―リップが開きはじめた。
 思いきって、あきなのマンションを訪ねることにした。
 六階まであがる。
 川島の表札のかかったドアをトントンたたいた。
 応答がない。
 カチャカチャとノブをまわすが、開かない。
 「そこの人。帰ってませんよ」
 ふいにとなりのドアが開き、すき間から女の声がした。
 暗くてよく見えないが、年輩のようだ。
 「どうも」
 正夫は一礼すると、そばに寄って、
 「この近くに住んでいる、鈴木という者です。子供の見守り隊の一員なんです」
 と、真面目な口ぶりで言った。
 「はあ、それで」
 「ここの女の子と仲良しになりましてね」
 女は手招きした。 
 正夫がそばに寄ると、
 「私も、あの子のことが心配なんです」
 低い声で言った。
 「ほんとですよね」
 女はちょっと間をおいてから、
 「実は・・・・・・」
 「実は、どうしたんですか」
 女はドアを広く開け、正夫を上がり口に招いた。
 ドアが閉まった。
 「何か、見たんですか」と、正夫の語気が強くなった。
 女はテーブルわきの椅子にすわると、
 「そうなんですよ」と応えて、右手の人差指で頭をかいた。
 「それで、一体何をごらんになりました」
 正夫は、なんとか訊きだそうとした。
 「まあ、おあがりになって」
 女は、向かいの椅子を引いてから、急須に湯をそそいだ。
 新しい茶碗を取りだした。
 「あっ、大丈夫です。気をつかわないでください」
 
 正夫は目を細めて、茶を飲みほした。
 「ごちそうさま。おいしかったです」 
 「あの日、男は自力でヴェランダを乗り越えたんですよ」
 女がぽつりと言った。
 「えっ。見てたんですか」
 女は、こくりと首をふった。
 「ほら、小さい時、高い所によじ登るのに、両腕をこうやって」
 女は実演して見せた。
 「ええ、わかります」
 「寒くなりそうなんで、ヴェランダの観葉植物を部屋に取りこもうとしたんです。そしたら」
 「男が部屋から出て来たんですか」
 「ええ。なんだかよろめきながら。大声でわめいていました」
 「何て言ってました」
 「そんなんじゃ俺はもう、とかなんとか。よじ登った後は、狭い所でしばらく体を動かしていました」
 「それで、落ちたんですか」
 「はい。必死でヴェランダの角をつかんでいたようでしたが、とうとう」
 「誰も助けようとはしなかったんですか」
 「女の人が出て来て、男の腕をつかんだようでしたが・・・・・」
 女はそう言うと、がくりと肩をおとした。
 「奥さん、そのことは、もう警察に」
 「いいえ、まだなんです」
 激しく首をふった。
 その時のことを思いだしたのか、女が興奮した。
 正夫は、女の背後にまわり、肩に両手をおいた。
 「お願いしますよ、奥さん」
 穏やかに、たのんだ。
 「面倒なんで。何かと。関わり合いになりたくなかったものですから」
 正直に話した。
 「そりゃそうでしょうけど。あきなちゃんのために。どうぞ」
 正夫の目が赤い。
 涙でうるんでいた。
 
 

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