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 陽子は、娘とふたりでオリオン通りを歩いている。
 夕立があがったばかりだ。
 さわやかな風が、釜川の上を吹きぬけている。
 強い陽射しが、アーチ状になった屋根の破れ目から差し込んでkた。
 陽子が見上げている。
 
 ここに住み始めて二十年。
 いろいろあったけど、今は幸せだわ。娘とのんびり暮らせるのが一番いい。ちょっと肝臓が心配だけど、月に一度は診察してもらっているから、大丈夫。食事療法すればよろしいって、おっしゃってたわ。娘は元気だし、この秋には結婚を控えている。おばあちゃんになる日も、それほど遠くないわ。私自身、親の反対を押し切った結婚だったから、実家とは行き来していない。娘は母と連絡をとっているようだけど、かまわない。それでいいの。おばあちゃんって、大事にしなくちゃ。一番よくわかっているのは、あたしなんだから。
 「お母さん、まぶしくない」
 穂の香が、そばで声をかける。
 「ううん。そうでもないわ。いいわね。お日様って」
 「どうして」
 「みんなに平等に照らしてくださる」
 「当たり前じゃない。そんなこと」
 「穂の香は若いからよ。お母さんくらいの歳になれば、この気持ちがわかるわ」
 「へえ、そうなんだ」
 夕食の材料を調達にきた。
 「お店があるから、忙しくなるわ。穂の香、帰ったらご飯作ってね。悪いけど」
 「悪くなんかないよ。一所懸命やるわ。何がいいかな」
 「簡単なものでいいわ」
 「だめよ。体が資本なんだから、栄養とらなくちゃ」
 「魚屋さんに行きましょうか。シジミのみそ汁がのみたいわ。体にいいからね。今はどんな魚がおいしいのかしら。秋刀魚はまだ出てないかしらね。あたし好きなのよ」
 「真夏だしね。どうだろう」
 「あんたも今から勉強よ。旦那さんのためにね。おいしい料理をつくってあげなさい」
 ウフフッと穂の香が笑う。
 
 店内は混雑している。
 魚芳は県内では有名だ。 
 新鮮な魚が安く手に入ると、主婦の間で評判がいい。
 ええっ、いらっしゃいいらっしゃい。入りたての活きのいいのがあるよ。奥さんどうですか。
 威勢のいい掛け声がとぶ。
 「お母さん、まぐろ食べようよ。私も働いているんだから、たまにはぜいたくしようよ」
 「ううん。そうね。いいわ。そうしましょ」 
 「これ、さばいてもらいましょうよ」
 奥にいる板前さんに声をかける。
 暖簾が顔を隠している。
 手際良くさばきはじめる。
 陽子はじっと見つめている。
 見覚えがあった。
 誰だったかなあ。どこで見たんだったっけなあ、あの包丁さばき。
 見たことがあるわ。若いころかな。
 陽子は顔をあげた。
 暖簾の裏にいるあの人を思い出した。
 
 「穂の香、ちょっとここはお母さんにまかせて。あんたは野菜を買ってきてちょうだい」
 「ええ、わかったわ。忙しいものね。手分けしなくちゃ」
 板前は、暖簾をあげ、顔をのぞかせた。
 間違いない。一郎だわ。
 あたしのこと、覚えているかしら。
 「じゃあ、奥さん、これ」
 「はい。お世話さまです。イチロウさん」
 目と目があった。
 「なんだい。誰だっけか。俺のことを知ってるんですか」
 「ええええ、忘れもしませんわ」
 二十年は長い。一郎は五十がらみだ。髪に白いものが混じる。
 覚えていなくてもしょうがない。良くないことなら、なおさらである。別れた妻です、なんて大きな声で言えることじゃない。女は変わるっていうわ。一郎はほんとにわからないかも。
 「何か今でもご縁があるから、こうして逢えたわけだわね。あたしよ。陽子」
 「俺も見覚えのある人だなって、さっきから暖簾の陰から見ていたんだよ」
 「ひどい人ね。もっともあたしひとりじゃなかったんでょうからね。女の人は」
 「それを言うなよ。もう懲りたから。今じゃ誰も相手にしてくれないさ」
 「娘は覚えてるんでしょうね」
 「でかくなったろうな」
 後で逢うことにした。今は真面目に働いているようだ。
 陽子は嬉しかった。娘にも逢わせようと思った。
 
 ネオン街に灯りが点りはじめた。
 「今晩は」 
 なあさんが、一番のりである。
 「ああら、いらっしゃい。うれしいわ」
 「ジョッキでビール。うんと冷えたの。頼みます」
 なあさんは、おおげさに頭をさげた。
 頭をかいている。
 「夕べは失礼しました」
 「いいのよ。いいのよ。気にしないでね。あたしたち、商いだから。凍て鶴を歌ってきかせてね。お酒が入る前に聞きたいわ」
 ママが言った。
 「よし、がんばるぞ。俺は巷の五木ひろしだぞ」
 「そうそう、その意気よ」
 
 陽子は、一郎となあさんのふたりを、心の底から応援しようと思った。
 
 
 
 
 夕陽が沈んでいく。
 遠くに小さく富士の山が見えている。
 赤く染まっている。
 空気が澄んでいる。
 春先にしては、めづらしい。
 
 一郎は駅に降り立った。
 アパートのドアを開けた。
 陽子が立っている。
 「あんた、遅かったじゃない。どこにいってたの」 
 「パパ、パパ。おかえんなさい」
 穂の香が、茶の間からかけてきた。
 抱き上げる。
 一郎に残り香がしている。
 陽子は気付いたが、娘の前ではと、思った。
 
 娘が寝息を立てている。
 「あんた、何かあたしに隠してることがあるでしょ。正直に言ってください」
 一郎は動揺する。
 「なっ、なんのこと」
 「言わないでもわかるわ。だれの匂いかしら。プンプン匂ってるわ」
 下を向いた。黙っている。
 口を開いた。
 「ちょっと気晴らしに、行きつけのバーに行ってきたんだ」
 「そう。それにしては、匂いが強い。そばで長い時間いっしょにいたのね」
 「むかしなじみの店の子だからさ」
 「まあいいわ。でも深入りしないで。そんなとこへ行くお金があったわね」
 「パチンコをやった。十万くらい勝った」
 「それ生活費にまわして。ちょっと今月苦しいの」
 一万円札を三枚、陽子に渡す。
 
 大穴だった。三十万勝った。ほとんどホテル代に消えている。
 一郎の手が震える。
 内心の動揺を悟られまいとする。しかし、体は正直である。
 「これだけあれば、おかずがいっぱいかえるわ」
 うれしそうだる。ヤリクリをしてみるといい。夫は妻の苦労がわかる。
 夫への不信の念が、どこかに消えてしまった。
 
 人間は哀れである。
 一生くっつくものは、くっついている。悪癖は容易に直らなかった。
 休日になると、一郎は出かけた。
 
 ピンポンピンポン。
 戸口に誰かが立っている。
 一郎が応対する。
 以前店の同僚だった男だ。借金をとりに来たのである。
 朝早く電話があた。
 「今回はこれだけにしてくれ。こんなに遠くまで、よく来るよな」
女房の目の前である。虚勢をはった。
 「全部返してもらうまで、来るよ」
 能面のように、表情を変えずに言う。
 
 陽子は食器を洗いながら、ふたりのやりとりを聞いている。
 一郎は生さばを一本、新聞紙に包んだ。
 これっと言って、渡した。
 穂の香が歩いて来た。
 「かわいいお嬢ちゃんですね」
 男が、土産の菓子を手に持たせた。
 「すまんな」
 あとの金はチャラにする。この子を大事に育ててください」 
 帰っていった。
 
 「まだ借りてたのね。もうないと、言ってたのに。あんたが信じられない」
 涙をこぼしている。
 しばらくして、別れた。
 娘は、陽子がみることにした。
 

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