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絆  春の嵐

 世の中は なにか常なる あすか川
        きのふの淵は 今日の瀬となる
 
 土曜日の午後、祐二と宏子は、猿沢の池のほとりを歩いている。
 宏子は午後休みをもらった。
 弥生の空である。
 陽射しがやわらかい。
 そよ風が吹いている。
 柳の葉が揺れる。
 
 宏子が、腕を組もうとした。
 祐二は、いやがる。
 辺りを見回す。
 「いいじゃないの」
 「なんか恥ずかしいんだ」
 「ばかねえ。あたしたち、もう立派な大人よ」
 「まあそうだ」
 言われたとおりにした。
 「もっと胸を張って。そのほうがいい男だわ」
 背を伸ばした。
 岸から五メートルくらいに石碑がある。
 石の台の上に、亀が甲羅干しをしている。
 
 ベンチにすわった。
 「気持ちがいいわね、祐二」
 「ああ故郷は、いいなあ」
 祐二は、四月から薬師寺の近くにある書道の墨を製作する会社に勤めることになった。
 宏子の知り合いの世話である。
 「お陰で職が決まった。どうもありがとう」
 「あらいやだ。お礼なんかいいわ。祐二の体が心配だわ。大変な力仕事のようだわ。友だちが言ってたけど」
 「先日、工場を見学してきたよ。男の人が真っ黒になって働いていた。煤からできるんだね。両足でふんづけてこねまわして、またふんづけて。それを何度も繰り返すんだ。俺知らなかった。書道を小学生のときに塾で習ったことだってあるのに、気にもとめなかった。たくさんの人の手で一所懸命に作られるものだってこと。値打ちがあるものなんだ。高価だって仕方がないと思ったよ。俺、がんばるよ」
 「それを聞いて、あたしとっても嬉しいわ」
 宏子が祐二の肩に体を寄せた。
 
 祐二は、身振りを交えて話している。
 宏子は、熱心に話す姿に好感を持った。
 惚れ直した。
 祐二のためになりそうだわ。体を使う仕事がいい。
 学生時代は、理屈が多かったようだから、丁度良い仕事かもしれないわ。神経がまいっているようだし。
 たくさん汗をかくのがいいわ。そのうち立派な大人になってくれそうな気がする。
 
 池の上を一陣の強い風が吹き渡った。
 見上げると、黒雲が空をおおっている。
 「あらいやだ。雨が降りそうだわ」
 「変わりやすい天気だ。春は。たまに北風が入り込むせいだ」
 「街の方へ行きましょ」
 「うん。コーヒーが飲みたい」
 
 東向きの通りにある喫茶店。
 宏子の行きつけの店である。
 ドアを開けた。
 「あらいらしゃい。久しぶりじゃない、宏子ちゃん」
 ママがふたりを出迎えた。
 「さあ、こちらへどうぞ」奥の席に案内してくれた。
 「ここなら内緒話できるわよ」
 「まあ、ママったら。気をきかせてくれたのね。わかったわ。じゃあ、お言葉に甘えて。たっぷりとラブラブなお話しをするわ。ねえ、祐二」
 祐二は下を向いた。
 
 テレビで地震のニュースを流していた。
 「ねえ、祐二あれ見て。大地震よ。大津波が起きたんだって」
 「ほんとだ。すごい被害だ。俺、ここんとこテレビを見なかったんだよ」
 「マグニチュード8.8.観測史上初めてだって」
 「阪神大地震よりでかかったんだ」
 「大津波が街や田畑を襲う画像が放映されたわ」 
 「ようそんなビデオが撮れたんもんや」
 「避難した人が写したらしいわ。道を走る車が、見る間に波にさらわれたわ。映画なんじゃないかと、思った。
ただのエンタメであってほしいと願った。でも現実だわ。自然の怖さがわかったわ。時間がたつにつれて、被害が大きくなっていくわ」
 「そうだろ。阪神大地震のときもそうだった。俺はまだ小さくてよくわからなかったけど、テレビを見ていて、大変だあと、感じた。六歳だったかなあ」
 「日本って、火山帯は多いし、近海で太平洋プレートが沈みこんでいる。地震の多い国だってことが、よくわかったわ」
 「俺、仕事に就くまで時間がある。手伝いに行ってくるよ。何かできると思うんだ」
 「たいした心がけね。あたし、嬉しいわ」
 
 宏子は、涙ぐんでいる。
 「充分に気をつけてね。そうだ。あたし、貯金が少しあるわ。持って行って」
 「わかった。小さなことしかできないと思うけど、がんばってくるよ」
 ママが紅茶とコーヒーを持って来た。
 「お話弾んでいるようね」
 「ええ。東北関東大震災の被害に遭われた方のお手伝いに行くお話です」
 「まあ、それじゃ私も協力するわ。カンパするわよ。明日は我が身よ。万葉集に一句あるわ。世の中はなにか常なるあすか川、きのふの淵は今日の瀬となる。大昔、明日香の川は、時折大水が出たの。その度に、深みが浅瀬に変わったというわ。世の中のことも、いつも同じではありません。ちょっと先のことだってどうなるか分からないということよ」
 「ママは万葉ファンだものね」
 「みんなありがとう。俺、がんばってくる」
 「気をつけて行ってらしゃい」
 
 
 
 
 
 
 
 

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