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三月下旬。晴れた日の午後。
正夫さんは、奥さんと家の庭にいる。
梅の花が白紅ともに、咲きほこっている。
かぐわしい香りをあたりに放っている。
低いが力強い音がする。
「なんだろな。あの音は」
「あたしは聞こえないよ」
「耳がとおいのによく聞けるね」
「耳がとおいだけが余計だ。よく聞けるっていってくれ」
「はいはい。よく聞けるね。耳がいいね」
「なんかわざとらしいんだな」
ふたりして木の真下に立つ。
耳を澄ます。
「まあいい匂いだこと」
「なんちゅうか。今流行のアロマとかいうやつか」
「いい匂いをかぐと気持ちがやすらぐのよ」
過日の車の衝突事故は、年老いたふたりにとって大変な経験だった。
梅の妖精が、その羽をゆっくり大きくあおる。
疲れたふたりの心を癒してくれる。
奥さんが一匹の蜜蜂を見つけた。
花にとまっている。
飛んでいるときは、小さすぎて見えないのである。
数え切れないほどいる。
ブンブンブン。
蜜蜂の羽音であった。
「ずいぶん働くんだな」
「そうね」
「正直なものだ。花が開けば、仕事にでかける。みつを取りに来るわけだ」
「あたしたちが若かった時とおんなじね」
「うん。そうだない。朝二時に起きて大洗にでかけたな。片道四時間かかった。お客さんが喜ぶ顔が今でも目に浮かぶよ。お店の秋刀魚は、とってもおいしいって、ほめられたな」
「ふたりして苦労した甲斐があったわね」
「いい想い出だな。働き蜂には、女王蜂がお客さんってところかな。どうした。暖かいから表に出るか」
「そうね。誰かとおしゃべりできるかもね」
「そうだ、そうだ」
大通りの歩道わきは、陽射しがあたたかい。
店の軒先まで太陽が照らしてくれている。
「きょうはお天道様に大事にされているなあ」
「そうだね。おまえさん」
「それにしちゃ、人通りが少ない。車が通らねえ。どうしたんだろうな」
「そうだよ。大地震のせいだよ」
「ガソリンがないんだよ。下町の油屋さんの前で、車が長い行列をつくってるの、見ただろ。あんた」
「ええそんなことあったっけ」
「もう忘れちゃったのかい」
「かあちゃん」
「なんだい」
「おれ、いくつだっけ」
「八十四。しっかりしようね。昨日のことなんだからね」
学習塾の先生が、自転車に乗って通りかかる。
前かごに本が三冊入れてある。
「今日は。お元気そうですね」
「よう、久しぶり。元気だったかい」
「元気ですよって、言いたいけれど、このところひどい事ばかりが起きてね」
「本当だね。部屋の中がめちゃめちゃになったよ」
「ケガはなかったですか」
「ええ、ありがとうございます。先生の方はどうですか」
「家はなんとか無事でした」
「東北の人たちのことを思えば何でもねえよ。このくらい」
「そうですね。たくさんの方が犠牲になられた。将来ある子供だって」
先生は目に涙をためている。
「考えるだけでこうなるんですよ」
「そうですよ。当たり前です」
「ここじゃなんだから、奥でお茶でもいかがですか」
「はい。それじゃお言葉に甘えて」
「よかったな。はじめてじゃないか。先生とお茶を飲むのは。俺はのみこみのいい人と話すのが好きなんだ。近くの年寄りと話すよりずっといい。街をどうしたら活気づけられるかとか、そういった話がいい。俺、政治をやってみようかって思ってるんだ」
「すごいですね。正夫さん。夢がありますね」
「そうだよ。いくつになってもね。希望を持たなくちゃ」
どっこいしょと丸太椅子に腰かけた。
「かあちゃん」
「なんだい」
「俺、いくつだっけ」
「八十四」
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2011年03月24日
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