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あだし野の露 消ゆるときなく
鳥部山の 煙立ち去らでのみ
住み果つる ならひならば
いかに もののあはれも なからん。
世は定めなきこそ いみじけれ。
徒然草 第七段 抜粋
夕刻に嵐山に着いた。
東京からの急ぎ旅だった。
今回は女性の編集者が一緒だ。
Y旅館にチェックインした。
ほっとした。
丹前に着替えて、窓際のソファにすわった。
ラークに火を点ける。
一息吸い込んで、すうっと吐き出した。
Dさんが、お茶を入れてくれた。
長い黒髪をしている。
鼻筋のとおった美人である。
蝶のイヤリングをしている。
近寄ると、香水が匂った。
「先生、どうもお疲れさまでした」
「ああ、きみも疲れたろう。社に入って、日が浅いと聞いたよ」
「ええ、まだ一カ月です」
「まあ、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
畳に三つ指をついて、頭を下げた。
「ずいぶんご丁寧だね」
「ここでホラーを一本、描いていただかなきゃなりませんもの」
「現金だね」
「はい」
ソファの前のテーブルに、湯呑茶碗をおいた。
手つきがいいな、と思った。
「お茶は習っているの」
「ええ、たしなむ程度ですが、表を少々」
「やっぱり。ここんところ忙しかったね。時代物の短編を、立て続けに三本描いた。一本目は処女作だった。気負い立っていた。散漫になったせいか、売れ行きは、いまいちだった。二本目は、B川での体験をもとに書き下ろした。これは好評で随分売れた。編集者のAが喜んだ。三本目は、М公園の原始林で出逢った老婆に関する小説だ。これは終わりに近づいている。もうひとひねりすればモノになる。それに加えて、あと一本」
「そうなりますね、先生。大変でしょう。わが社も駆けだしです。一所懸命です。浮かぶも沈むも一緒です」
「うまいことを言う」
Dは微笑んでいる。
お茶をつぎたした。
Kの右手が、そっと彼女の手の甲に触れた。
「まあ、先生」
「親愛のしるしだよ。きみは、昔の恋人に似てる」
「口がお上手ですね」
「仕事柄ね」
「新鮮な空気を吸いましょうね」
Dが窓を開けた。
「まあきれいな夕焼け。淡い灯がТ橋の所々に点っているけど、あれは何でしょうね」
「どれ。あれはね。ポールの先に点った灯りらしい」
せせらぎが聞こえる。
ラークを一本とりだした。
Dが火を点けてくれた。
「ありがとう。気がきくね」
紫煙が立ちのぼる。
「それじゃ、ごゆっくり。私は隣の部屋にいます」
「何かあったら呼びます」
Dが立ち去った。
若い女性の編集者さんだ。
言動に注意しなくては、と自分をいましめた。
Kは、夜の景色が好きである。
外出することにした。
Dを誘った。
「疲れているので、お先に休ませていただきます」と、やんわりと断られた。
Т橋を渡っていく。
Kは、上流の川面を見つめている。
川は、色んなことを教えてくれる、と思った。
B川での火の玉を、思い出していた。
柳の下にどぜうは、だ。
橋をわたりきった。
ふりかえった。
嵐山のふもとが、何故か気になったのである。
ちらっと見た。
提灯の灯りのようなものが、いくつも見えた。
ピンときた。
鬼火が、ふわふわと動き回っている。
やはり俺には、とそこまで言って、止めた。
小説家のカンだ。
明日は、この地に詳しいE老人と会うことになっている。
竹で日用品を作る名人だ。
今、目にしたことをたずねてみよう。
時代物のネタになるかもしれない。
Kはそう思った。
橋の向こうを見た。
道の両側に色んな店が立ち並んでいる。
ネオンも点りだした。
Kは、引き返すことに決めた。
小説家だって、大の男である。
久しぶりに酒を飲んで、ホステスとおしゃべりしたいと思った。
あまり気持ちがゆるむと、いい小説が描けないことが分かっていた。
「がまんがまん」と言いながら、旅館に戻った。
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2011年04月28日
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五月の最初の日曜日。
Т寺の東門で宏子と待ち合わせた。
祐二が墨造りの仕事をはじめてから、ほぼ一カ月たった。
体の筋肉が仕事向きになっている。
ひきしまってきた。
楽に練り仕事がこなせるようになっている。
朝早く起きた。
午前五時である。
家族は、まだ眠っているはずだ。
二階の階段をゆっくり降りる。
台所のガラス戸を、音をたてないように開ける。
母がいた。
コーヒーの香りが漂っている。
「おはよう。母さん、起きていたんだ」
「だって、今日は宏子さんと会うんだろう」
「あれ、どうして知ってるんだろ」
「半月くらい前、夕食をみんなでとっている時に、お前嬉しそうに話したじゃないか」
「よく覚えていてくれたね。ありがとう」
「お弁当をこしらえてやろうと思ってね」
「そうなんだ。世話かけるね。いつまでも。学生の時までで、たくさんなのに」
「性分だから。大和おんなの深情けだよ」
祐二が椅子にすわった。
コップから湯気があがっている。
皿に食パンがふたきれ、のっている。
バターを付けた。
少しちぎって、口に入れる。
「宏子さんも、何か用意してくると思うんだ」
「それはそれで、食べればいいんじゃない。まずは、宏子さんの物をおいしそうにいただくんだよ。それから母さんがつくったものに箸をつければいい。おにぎりにしたからね」
「なるほど」
「大切な人なんだからな。宏子さんは。お前みたいなゴンタさんには、過ぎた相手だ」
「うん。そう言われると、返す言葉がないなあ」
「お前はあの人とつき合ってから、人が変わった。真人間になった。宏子さんは、お前にとっては観音さまだ。泣かしたりしたら、承知しないからね」
「おお、こわ」
コーヒーをすすった。
「ああ、おいしい。そろそろ出かけるかな。夕べのうちに釣りの用意はしておいたし」
「どうやって行くの。Т寺の近くまで」
「歩いていくさ。小さい頃を思い出しながら。おじさんと魚取りに行ったもの。ドンドン滝の下で四つ手網をつけたり、二時間もかけて、大和小泉まで釣りに行ったりしたよ。秋篠川は、ぼくのものさ」
「そうだね。弟はお前のことを可愛がってくれた。結婚式にはスピーチを頼もうか」
「ちょっと気が早いんじゃない。じゃあ行ってきます」
「夕食はどうする」
「どこかで食べてくるから心配しないで」
「気をつけてな」
大川の土手に出た。
川に沿って南にくだる。
犬を連れた人に出会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
知らない人との挨拶が楽しい。
川岸は、よく整備されている。
すでに釣り糸を垂れている人がいた。
道を外れて、そばに寄った。
隣にしゃがむ。
低い声で尋ねた。
「どうですか。釣れましたか」
ウキがぴくぴく動いている。
目が放せない。
グーと水中に引っ張りこまれた。
サッと竿をあげる。
手ごたえがあった。
ウキが右、左に動きまわる。
男は冷静だ。
弱るのを待っている。
竿を立てたまま、鯉を引き寄せる。
鯉が水面をすべるように、近づいて来た。
左手で網をもつ。
すくった。
口にひっかかった針を抜いた。
体長が一尺はあった。
両手でしっかりと掴んで、頭の方からビクに入れた。
「もう大丈夫やさかい。話してもええ」
「大物でしたね」
男は微笑んだ。
「あんたも頑張れ」
「ありがとうございます」
宏子が、待ち合わせ場所に来ていた。
「おはよう。早いんじゃないの」
「楽しみにしていたの。夕べは、お弁当を作ったら、早くやすんだわ」
「ほら、家の母さんの弁当」
「あら。困ったわ」
「困ることないって。ちゃんと母さんにふたりの弁当の食べ方まで、教わってきたから」
「へえ、驚いた」
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