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暗い闇の中に、足音が響いている。
若い男が竹林の小路を走っている。
駆けだしてから、およそ十分たっている。
それほど汗が出ていない。
ほとんど贅肉が付いていない体である。
マラソンランナーだ。
独身である。
最近、Т橋近くのアパートに市街から移り住んだ。
この辺りは、走るのに都合がいい。
街を少し外れると、車が少ない。
そう思って、選んだ。
不意に街灯の下に、人影が見えた。
午後十時前だ。
今頃誰だろう。俺のようなモノ好きは、どこにでもいるだろうが、と不審に思った。
男は走るのをやめた。
歩きはじめた。
あっと言った。
若い女だったからである。
女ひとりで散歩でもないだろう。犬を連れている訳でもない。
世の中には変わった人がいるものだ、と思った。
マフラーをしている。
頭からかぶっているので、顔はよく見えない。
近づいて行く。
女が手招きをして、後ずさって行く。
竹藪の中に誘っている。
何だ、変な奴だな、と思う。
好奇心が打ち勝った。
女が言った。
「あたし、とってもさびしいのよ。慰めてちょうだい」
随分はっきりと、モノを言うもんだと思う。
男も独り身である。
キツネに化かされているかもしれないが、応じることにした。
幽霊ではなさそうだ。足が付いている。
男は少年時代を想い出していた。
川沿いの葦の茂みの中に、隠れ家を作ってあそんだ。
女も藪の中に、大人がふたりくらい入れる大きさの隠れ家を持っていた。
外からは、そこに人がいるとは分からない。
竹の葉がマットの役目をしていた。
その上で愛し合った。
最中に、女がうわごとを言った。
「嬉しい。いとしい、いとしい貴方様に、ようやく巡り合うことができました」
男は二度、三度と抱いた。
女は眠ってしまった。
男は藪から出た。
キツネじゃなく人間だった。やれやれ助かった、と思った。
衣服に付いた枯れ葉をはらった。
歩いてもとの小路にもどる。
振り返った。
藪の上に、光玉のような物が尾を引いて浮かんでいる。
男は、さては、と思ったが、
「まあ、いいか。お互いに慰め合ったのだから」
と、若者らしいドライな気持ちで言った。
「さあ、もうすぐゴールだぞ」
自分に言い聞かせた。
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右手で手鏡を持って、Т子は自分の顔をのぞいた。
眼差しが輝いている。
今までは、心の憂いが表情に現れているかもしれない、と怖がっていた。
今回は、危ういところで、大切な人を失くすところだった。
自分の意識がとどかない心の闇は、つくづく恐ろしいものだと思った。
考えすぎる自分の欠点を、М子の応援や祖母の言葉でクリアできた。
Т子は、Sをずっと愛していた。
Sも同じように、自分のことを想っていてくれるものと信じていた。
五月の最初の日曜日だった。
曇り空である。
私鉄のL駅の上りホームに立っていた。
D町のあるデパートで、衣料品のバーゲンセールを開催する。
その初日であった。
開店と同時に入りたかった。
初夏向きのТシャツが、ほしかったのである。
電車がホームに入ってきた。
鎌倉方面に向かう客で混雑していた。
昇降口の近くに立つことにした。
次の駅で降りるからである。
吊革につかまり、何気なく外を見た。
向かいのホームにいる男が気になった。
Sだった。
そう思った。
女と連れだっている。
手をつないで歩いている。
微笑みあっていた。
寄り添って、キスをかわした。
やっぱりそうなんだ。あたしの胸の内がざわつくと、いつも何かが起こる、とТ子は思った。
心の中で、何かがバチンとはじけた。
電車が動きだした。
彼らの姿が視界から消えるまで、Т子はずっと見つめていた。
翌週の月曜日。
Т子は、お茶当番だった。
早めに出社した。
「おはよう、Т子。調子はどう」
同期のМ子が気遣ってくれた。
「おはよう」
М子は営業部に所属している。
Т子は総務部だった。
М子は、いつも微笑んでいる。
明るい性格のおかげで、得意先の受けが良かった。
「どうしたのよ。さえない顔してるわ」
「そおう」
「そうよ。もうじき結婚するって人が、そんなんじゃね」
「ううん」
「彼とケンカでもしたの」
やはり顔に出るんだ、とТ子は思った。
「目は心の窓だよ。気をつけなさい」
去年亡くなった祖母が言い残した。
「ううん。別に」
Т子が、間をおいて答えた。
「煮え切らないのね。良かったら何でも言ってね。あたしは今まで、随分あなたに力を貸してもらったんだから。恩返しをしなきゃと思っているんだ」
М子が励ます。
「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいわ。でも、今回は自分で解決したいの」
「それなら仕方ないけど。がんばってね」
Sは、М子と同じ部署であった。
М子の上司である。
「おはようございます、係長」
「おはよう」
「Т子にあいましたわ」
「そう」
「それだけですか」
Sは、怪訝な表情を浮かべた。
「それだけって、どういうこと」
「Т子、元気なかったですよ。六月には、花嫁になるっていうのに」
「どうしたんだろうね。あとで尋ねてみるよ」
「それはそうと、今日の仕事の段取りはついたの」
「はい。午前十時にA社のBさんとお会いすることになっています。午後は二時にC社に出向いて、新発売の事務用品の売り込みをする予定です」
「がんばってくれたまえ」
「はい」
お昼休み。
Т子とSは、屋上にいる。
手すりによりかかって、海の方を眺めている。
ふたり並んでいる。
「元気ないんだって。М子が心配していたよ」
「気になる。あたしのこと」
「気になるさ。当たり前だろ」
「そうかしら」
「あなた、あたしのこと、本当に愛してくれているの」
「俺が信じられないんだ」
Т子は遠くを見た。
「あたし、見ちゃったのよ。あなたを。L駅のホームで、女と仲良くしているところを」
「ええ、そんな」
「日曜の朝よ」
「誰かと見間違えたんじゃないか。ずっと友だちのBとテニスをしていたんだから」
「そうなんだ。テニスをね」
人違いをするわけがない。
彼の体の隅々まで知っているんだから、あたし。愛するって、そういうことだもの。
Bに聞いても、ムダなことである。口裏を合わせているかもしれない。
そう思った。
Т子は、ひとりで海岸にいる。
断崖に立っている。
波が岩にくだけている。
夕陽をじっと見つめている。
風が出てきた。
長い髪がなびいている。
涙が頬をつたう。
小指のエンゲージリングをぬきとった。
左手に持っていたバッグの中で何かが、キラッと光った。
愛用の手鏡だった。
夕陽が当たった訳でもないし、何かのお告げかしら、と思った。
ひょっとしたら、彼の事。あたしが見間違ったのかも知れない。
あたしって、独りよがりなところが昔からある。
結婚を控えて、ちょっとのことでも、とても感情的になっていた。
「妄想するなかれって、お釈迦様がおっしゃっているよ」
「何だって人を疑うからには、とことん納得するまで調べてからにしなさい」
祖母は、色んなことを教えてくれた。
「あたしが、幸せになれるかどうかの瀬戸際よ」
そう声に出した。
手鏡が、リングを投げるのを思いとどまらせてくれたんだ。
バッグから取り出した。
顔の前にかざす。
あたしの顔が明るく見えた。
「明るいのよ、あたしの前途は」
「闇の向こうには、光の世界が広がっているんだ」
「あたしは幸せになるんだ」
海に向かって、大声で叫んだ。
鏡面が夕陽をあびて、キラキラ輝いていた。
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