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生きがい 

 A子は、闇の世界で生きている。
 常に夫のBが寄り添っている。 
 唯一の楽しみがある。
 近所にある日帰り温泉に行くことだ。
 人の歌を聞いたり、自分が歌ったりする。
 二人とも七十歳がらみである。
 演歌が好きだ。
 妻が歌うときは、夫が後ろにいる。
 歌詞を先読みする。
 画面の歌詞を夫が読み間違えて、ふたりがステージで文句を言いあうことがある。
 大広間の客が微笑む。 
 毎週水曜日の午後にやって来る。
 夫の手のぬくもりが生きる支えだ。
 人々の間にいても、心が安らかでいられるのである。
 暗い海を航行する船を導く灯台のようなものであった。
 Bは、彼女の右手を両腕でかかえたまま館内に入って行く。
 
 ジュンは、ホストクラブで働いている。
 いつかは人気ナンバーワンになりたいと願っている。
 なかなか客の気持ちをつかめない。
 歌がうまい上に、作詞の勉強もしている。
 多才な好青年である。
 
 ある日曜日、ジュンは、時々歌の練習をしている日帰り温泉に出かけた。
 A子夫妻も、日曜にもかかわらず来ていた。
 「こんにちは」
 ジュンが声をかけた。
 「まあ、ジュンさん。久しぶりね。元気だった」
 「ええ、まあ」
 「М子さんもお元気なようですね」
 「どう、ホストのお仕事のほうは」
 「相変わらず、お店のワーストワンの記録を更新し続けています」
 ジュンは頭をかいた。
 「あなた、何かうれしいことがあったでしょ」
 「ううん。別に何もありませんよ」
 「わたしね、声を聞くだけで、その人の気持ちが分かるようになったの。不思議なくらいよ」
 「目が不自由だから、その分きっと耳が良くなったんだと思うの。恋人が出来ましたか」
 ジュンは、S子のことを思った。
 恋人と呼べるほどの人ではないが、好意は抱いている。
 「ぼくの歌の友だちなんですが、懇意にしている女の子がいます」
 「彼女、テレビのカラオケ番組で優勝したんですよ」
 「その子を今度連れて来てね」
 「はい」
 「ジュンちゃん。一曲歌って」
 A子が百円玉を二枚、ジュンに渡そうとした。 
 「そんなあ、いらないです。何でもいいですか。僕、歌いますから」 
 夫のBがいった。
 「俺、ひと風呂あびてくる」
 「ええ、いいわ。ここで皆さんの歌を聴いているから」
 「わたしがいますから、大丈夫ですよ。どうぞ、ごゆっくり」
 ジュンが言った。
 ジュンが、十八番の「ワインレッドの心」を歌い終えた。
 広間の酔っ払いまでが、手を叩いている。
 「あたしがやってみようかな」
 A子が立ちあがった。
 テーブルに手を触れながら、ゆっくりとステージに近づいて行く。
 ジュンが心配している。
 「段差がありますよ」
 声をかけた。
 A子がつまづいて、転んでしまった。
 広間には十人くらいいた。
 ジュンは、すぐに行って抱き起こしたいと思ったが、ためらっていた。
 A子は座り込んだまま、両手でげんろくをさすっている。
 「大丈夫ですか」
 ジュンは、思い切ってA子の右手を両手でにぎった。
 彼女は、右腕に力をこめた。
 夫のBが戻って来た。
 妻が席にいないのに気付いて、辺りを見回している。
 両手をA子の体に回して、抱き起こした。
 「おめえ、また太ったんじゃないか」
 「余計なこといわないの」
 「ジュンさん、悪かったね。ありがとう」
 Bが礼をいった。 
 「いいえ、もっと気をつけていないといけなかったのに。すみません」
 「俺の代わりをあんたにやらせられないよ。喜んでるよ。女房のやつ。あんたのファンなんだから」
 Bは、顔にしわを寄せて笑った。
 俺も夢を捨てずに、地道にがんばらないといけないやと、ジュンは思った。
 
 

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