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H病院の白い壁にも、夕陽が当たっていた。
淡い紅色に染まっている。
哲夫の父、三郎は屋上にいる。
未だに肩の包帯は取れないが、傷はかなり癒えてきていた。
左腕を右肩から支えている。
金網越しに、沈みゆく太陽を妻の芳江と眺めている。
「あなた、とってもきれいね」
「そうだな」
「あたし小さいころから不思議だったのだけど」
「何がだい」
「どうして山に沈むときは、昼間よりもお日様が大きいんだろうって」
「そう云われればそうだな。俺だって理由はわからん。大きさは変わらないんだろうが。理科の先生にでも尋ねてみるか。それはそうと、哲夫と真理子は、うまくいっているのか」
「ええ、まあ」
「何か具合がわるいことでもあるのか。子供のことだ。かまわないから何だって話しなさい」
「ちょっと真理子が」
「真理子がどうしたんだ」
芳江が、三郎の剣幕に少したじろいだ。
「あっ、ごめんごめん。怒っているわけじゃない」
「夜なかに外出するようなので、哲夫が心配で、お母さんに相談したらしいんです」
「ばあちゃんにか」
「はい」
「ちょっとやっかいだな。ばあさまも嫁に来たばかりの頃に、いま、真理子が直面しているようなことを体験したらしいんだ。六十年も前の話だがな」
「あたしは、何事もなかったんですけどねえ」
「良かったな、お前は何事もなくて」
「お母さんは、哲夫を励まされたようです。しっかり嫁をまもってやれと」
「ううむ」
「今日の夕方、街の占い師の所に立ち寄ると、お母さんには言ってでたようです」
「芳江、俺は何だか胸騒ぎがしてならないんだ。父子は遠く離れていても、どこかで気持ちが繋がっている」
「そうでしょうね。男同士ですもの」
「どこの占い師だ」
「なんでも祇園近くで、有名だそうですよ」
「そうか。それだけ聞けば充分だ。京の母だ。よく当たるが、哲夫は事によると命がけになる」
「ええ。命がけですって」
芳江の顔色が変わった。
階段に通じるドア付近で、声がした。
「お父さん」
娘の敏子だった。
息をきらしている。
「看護婦さんに聞いたら、ここだといわれたのよ」
「仕事の帰りでしょ。今日は早く終わったのね」
「早びけさせていただいたのよ。普段はめったにしないから、上司はすぐにОKしてくれたわ」
「そう。良かったわね。芳江、悪いけど先に部屋に戻ってくれない」
「ええ。今来たばかりなのに」
「Тさんの奥さんが、お見舞いに来て下さったのよ。お花いただいたわ。花瓶の花を取り換えてほしいの」
「わかった。まったくあたしがお邪魔みたいね」
三郎が微笑んだ。
「頼むよ、としちゃん」
「はあい。おとうさま」
「芳江。お前も子供のあしらい方がうまくなったな」
「敏子に心配かけたくないから」
「そうだな。急いで部屋にもどるぞ。やることがある」
三郎は、一歩足を踏みだしたとたんに、雪駄のひもが音を立ててきれた。
嫌な予感がした。
「てつお。待っていろ。今行くぞ」
裸足でかけだした。
「あなた、ドアの所にスリッパがありますよ」
エレベーター前は人であふれていた。
ふたりは階段を降りることにした。
危うく転げ落ちそうになった。
部屋に戻った。
敏子の姿はなかった。
小さなテーブルの上に置手紙があった。
「彼と約束があります」と、書かれてある。
芳江がその手紙をにこにこしながら読んでいる。
三郎はベッドの上で、はあはあ言っている。
看護婦さんが来た。
「どうしたんですか」
「ちょっと駆け下りたもので」
「まあまあ元気なこと。血圧と体温を測ろうと思ったけど、これじゃちょっと無理だわね」
「すみません」
「奥さま、旦那さんを見張っていてくださいね。遊びに出歩かないように」
看護婦が微笑みながらいった。
「明日の朝来ます。お休みなさい」
ドアを開けて出て行った。
「芳江。俺は今から瞑想する。絶対に話しかけるな。意識がほかに飛んでいるからな。うわごとを言うようなことがあっても、かまうんじゃないぞ。哲夫を助ける」
「わかりました」
「俺と哲夫の無事を傍らで祈ってくれ。心配するな。必ず目覚める」
三郎は、静かに両の目を閉じた。
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2011年05月10日
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シャワーを浴びてきたものの、汗の匂いが胸元から立ちのぼってくるのを感じた。
作業着が汚れていた。
哲夫は、占い師に気をつかった。
「すみません。仕事帰りに立ち寄ったもので」
彼女は無言で、じっと水晶玉を見つめている。
お香が焚かれているんだから、気づかいは無用だったか、と思った。
哲夫の緊張度が増した。
手に汗をかいている。
しょうがないなあ、俺は女の人の前では、いつもこうだ。
気楽にいられないんだからと、しきりに反省している。
「気を鎮めなさい。水晶玉を見つめなさい」
占い師がおごそかに言った。
蝋燭の炎だけが、水晶玉の中で揺らめいている。
女と男の顔がゆがんで見えた。
女は、目を細めたり丸くしたりしている。
時折呪文をとなえている。
両手を摺り合わせている。
哲夫の気持ちが落ち着いて来た。
心の「池の水面」がないできた。
鏡面のような状態になった。
興奮がおさまった。
「いよいよです。これから、真理子さんに憑依している霊が現れます」
「その霊に、あなたの思いのたけをぶつけてください」
「はい」
「私はあなたを助けることは出来ません。祈ることが出来るだけです」
「わかりました」
「尋常な相手ではありません。覚悟して闘いにのぞんでください」
「あなたの想いが天に届くことを願っています」
哲夫は胸の鼓動が高まって来た。
恐れよりも勇気が上回っている。
妻をいつくしむ気持ちが強いからであった。
呪文が大きくなってくる。
水晶玉の中の風景が、嵐に巻き込まれているようだ。
走馬灯のように回りだしている。
混沌としている。
哲夫は、心地よい香りに浸っている。
自分の意識が、すうっと水晶の中に入って行くように思えた。
「生きすだま」が体から抜け出していった。
混沌のなかへ入って行く。
哲夫の体だけが、空しく、椅子に腰かけている。
占い師と受付の女性が、そばにあったベッドに彼の体を横たえた。
いつか哲夫の脳裏に浮かんだ黒雲が目の前にあった。
彼の生きすだまは、光を放っている。
真理子に対する想いが、強ければ強いほど輝くのだ。
それが哲夫の唯一の武器であった。
積乱雲に近づいて行く。
黒雲が光を受けて、ちぎれ飛ぶ。
強い風が突然、哲夫に向かって吹いた。
夜叉が吹きかけている。
哲夫はそう感じた。
雲の奥から、遂に姿をあらわした。
十二単衣を羽織った姫様であった。
「おまえは、わたしの邪魔をしようというのかえ」
哲夫は言った。
「あなたですか。私の妻にとりついているのは。お願いです。どうか、出ていってください」
光にはばまれて、夜叉は、哲夫にそれ以上近づくことができないでいる。
長い黒髪を振りみだしはじめた。
重ね着をした衣が風にあおられている。
顔が、鬼面に変わっている。
「だめじゃ。六十年、待ったんだ。わしはこの世にいるときに愛しい方がおってのう。添い遂げることが出来なかかったんじゃ。その想いが強すぎたせいで、こうして千年たっても成仏できずにおる。苦しくてたまらん。男と交われば、一時でも心が安らぐのじゃ」
「真理子は嫁にきたばかりでございます。どうぞ許してやってくださいませ」
「ええい。ならぬものはならん。ようやく乗り移れる魂を見つけたのじゃ」
夜叉は、懐刀を右手で取りだした。
鞘をはらう。
キラリと光った。
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